経済的存在から社会的存在への企業変革
「組織科学」(組織学会機関誌1991)

[要旨]
社会における企業の存在が増大した結果、企業が単なる経済機関であることは許されなくなりつつある。企業活動の評価も経済的視点からだけではなく、社会的な視点から考えていかなければならず、プラス面よりもむしろマイナス面を重視していく必要が出てきた。企業はこれまでのような「社会=市場」観を捨てると共に、企業内部にしっかりした社会感覚を確立する必要がある。その基本は企業人一人ひとりの生き方にある。
<キーワード>
     企業活動の価値バランス,企業評価軸,コーポレート・シチズンシップ
     企業パラダイム転換,企業の社会性
                      

●はじめに/経営論から企業論へ
 企業を見る社会の目が変わってきた。もちろん、それは今に始まったことではない。地域活力の象徴として誇りですらあった工場の煙突が、生活にとっての厄介ものとなり、それと共に企業への批判が高まりだしたのは、既に30年も前のことである。そして、1970年代に入ると「くたばれGNP」議論が起こってくる。
  高度経済成長は、人々に「豊さ」をもたらしてくれたが、同時に歪みもつくりだした。「未熟な」企業行動(例えば欠陥商品や違法行為)がそれを増幅させ、企業に対する批判の高まりも何回か起こっている。
 その都度、企業は自らの社会的責任や倫理を正すことに努めてきたが、企業行動が社会的に成熟してきたわけではない。むしろ、企業のあり方は全くといっていいほど変わっていない。議論されるのは、いつも「経営者の倫理」であり「経営のやり方」だった。何ら本質的な問題は問い直されることなく、その結果、歪みや矛盾はますます蓄積されてきているように思われる。
  事実、企業不祥事は個別企業レベルから次第に構造化してきているし、「塀の中の懲りない面々」は仲間を増やし、しかも確信犯化してきている。「倫理」や「経営のやり方」の次元で語っている以上、それは当然の帰結だろう。いかに新しい経営パラダイムを求めようと、企業の役割や企業の論理を問い直さない限り、事態は変わらない。そして今、改めて企業のあり方が問われだしている。

 時代は大きな変わり目にある。世界を席巻した西欧近代は、その成功の故に、そろそろ時代の幕を下ろそうとしている。近代化推進の核であった企業も、自らのあり方を根本から見直すべき時期だろう。それは「企業の失敗」のためではなく、むしろ「企業の成功」のためなのだ。そこに問題の難しさがある。
  現在の企業力をもってすれば、対症療法的な対応でも当面の事態はおそらく乗り切れるだろう。それが今までの企業の姿勢であった。しかし、果してそれでいいのだろうか。今回は少し違った動きになりそうな予兆もある。その予兆を本物にしていくかどうかが、企業の未来を決めていくのではないか。そのためにも、企業はしっかりと社会の目を受け止めなければならないし、社会もまたしっかりと企業の実態を理解しなければならない。経営戦略としての「共生」を軽々しく口にしたり、あるいは時流にのった安直な反企業論をぶったりすることは、避けなければならない。企業は「社会の子」であり、社会も企業も同じ人々が構成しているという当然の事実を忘れてはならない。
 企業を見る社会の目は、決して「経営論」にあるのではない。経済活動だけに限って企業を考えているわけでもない。社会の中の企業のポジショニングや、社会のあり方に関連しての企業のあり方が問題になっている。議論すべきは「企業論」なのである。

 経営論と企業論とは、似て非なるものである。例えば、フィランソロピー(慈善精神)やボランティア(自発的行為)、あるいは地球環境問題が話題になってきているが、それらを「経営論」で考えてしまうと、企業イメージ戦略や社員活性化、あるいは新規事業としての効果が議論されることになる。だが、「企業論」で考えれば、それは企業の役割や業績基準の組み替えにつながっていく。役割が変われば、当然、経営のやり方も変わってくる。
  しかし、経営のやり方が変わったとしても、企業の役割や評価基準まで変わるわけではない。むしろ、目的を変えないために手段を変えると言う発想だろう。両者は密接不可分ではあるが、どこに視点を置くかで全く違った議論になってしまう。
 企業の成功に刺激されて、非営利組織にも企業経営のやり方を導入しようという動きがある。目的が議論されずに、手段としての「経営」が信者を増やしている風潮には大きな危惧を禁じえない。
  JRやNTTの誕生も、そうした発想の具体的なあらわれのひとつである。いわゆる「民営化企業」は、新しい企業のあり方(例えば企業の社会性のレベルアップ)の提案に成りえたにも関わらず、現実にはこれまでの企業の論理を熱心に追求しているだけのように思われる。ここでも、議論は「経営論」であって、「企業論」ではない。これはおかしなことである。これまでの膨大な社会投資と突出した地位から考えて、JRやNTTが民営化後、業績を上げることは当然である。経営努力とは関係ない。問題は、そうした企業が一気に私的な金銭的利益を追求するだけでいいのかということである。企業にとっての新しい利益概念や業績概念に新しい視点を導入することが、そうした企業の役割ではなかったのか。せっかくの機会であったにもかかわらず、企業論の展開がほとんどなかったことが、問題の深さを示している。
 いま議論すべきことは、「経営」のやり方ではなく「企業」の役割やあり方であり、経営者の「倫理」ではなく企業の「論理」なのではないか。これが本論の基本的な姿勢である。

●企業を見る社会の目
 企業に対する社会の期待は大きく変化しつつある。1989年に経済広報センターが『あなたが企業にのぞむこと』というテーマで論文を募集した。全国から610編の論文が寄せられたが、そこで語られた企業への期待は、例えば次のようなものである。1)

@社会福祉
身障者雇用などの直接的期待のほか、もっと広い範囲で行政と関わって社会福祉政策の立案推進に力をさくべきだという意見が多い。企業の知恵と人材を投入しない限り遅れてしまうという危機感を訴える人もあった。
A文化活動
文化への支援や国際的な文化交流を企業に期待している人が多い。特に後者については、企業の持つ情報力や世界的なネットワークの活用が期待されている。
B教育
教育への期待も多い。現在の学校教育や家庭教育に失望し、企業教育こそ唯一の有効な教育と指摘する人もいる。社員だけではなく、幼児教育、若者教育、社会人教育などの様々な面で、企業が役割を果たすことが期待されている。企業のあり方が教育を歪めてきたという意見も少なくなかった。
C環境整備
都市に緑を増やすことへの協力や自然公園の建設などの自然環境保全、あるいは都市内の街灯やベンチ、トイレなどの公共施設の整備を企業に期待する人も多い。
D地域整備
地域づくりへの期待も多い。特に社員のボランティア活動への支援要請が多く寄せられている。企業施設の開放の要請も強い。
E政治活動
不明朗な政治献金や政治癒着への批判は強いが、その一方で、企業はもっと積極的に政治に提言していくべきだという議論も多い。
F新しい文明創造
新しい日本の国家ビジョンづくりや21世紀に向けての新しい文明の提案を、企業に望んでいる人もいる。

 これらをすべて企業が引き受けることは、現実的ではないし、適切でもない。企業が活動舞台を広げることについては、企業の視点からも、社会の視点からも、批判が出されている。フリードマンやハイエクを例に出すまでもない。ある研究会でこの話をした途端に、知人の経営学者から「そんなことをしていたら企業はつぶれてしまう」と一笑に付されたことがある。あるいは、昨年放映されたNHKスペシャル「企業社会を問う」で、ある作家が「企業はいいものを安くつくっていればいいのであって、余計なことをするべきではない」という趣旨の発言をしていた。
 しかし、こうした問題に対して多くの人々が不満を持ち、どうにかしてほしいと考えているという事実は大切である。どこにぶつけていいのかわからない、そうした気分が企業に向けての期待につながっているのである。言い換えれば、それだけ企業の社会的意味が大きくなっているということである。こうした状況を企業は放置しておいていいのだろうか。企業は利益追求が目的であり、利益を上げて税金を納め、後は行政の仕事と割り切ってよいのだろうか。企業自らがすべてをやることは無理だとしても、問題の解決に向けて、企業は何らかの役割を果たさなければならないのではないだろうか。
 この点については、経営学者や有識者よりも、企業の現実が進んでいる。企業は単なる経済機関ではなく、社会機関であり文化機関でなければならないと発言する経営者も出始めている。現実が理論より先行するのは仕方がないとしても、時代の変わり目にあっては、現実に先行する仮説が必要である。固定的な企業モデルや企業理論から自由になって、新しい企業モデルを構想することが時代の課題になってきている。アンラーニングが求められているのは経営者だけではない。
        
●豊かな時代の企業の意味
 企業に対する社会の目が変わってきたのには、当然それなりの理由がある。
 まず、企業を取り巻く社会が「物不足」から「物余り」へと変化したことが、第一の理由としてあげられる。物不足時代の企業の目標は「物の豊かな社会」だった。松下幸之助の「水道哲学」に象徴される「良いものを安く社会に提供する」という企業の役割は、物不足時代においては大きな意味を持つ。しかし最近のように、物不足どころか物があふれるほど豊かになってしまうと、その意味は変わってくる。そもそも「経済の論理」や「企業制度」は、物不足を前提として構築されてきたものである。物余りの状況の中で,そのままの論理を継続することには無理がある。
 「生産活動」を例にとって考えてみよう。「生産」とは「変形変質」を「経済的視点」から評価したものである。視点を変えれば、それは「消費(破壊)活動」になっている。自然を原料として消費し,エネルギーを消費する。生産の過程で出た不用物は廃棄され,製品もいつか廃棄されるが,これは環境の消費につながっている。ものをつくることは、同時にものを壊すことに他ならない。「変形変質」自体に価値があるわけではない。物不足の状況のもとでは「生産的側面」が評価されたが、物余りの時代には「消費的側面」が重要になってくる。壊す物と作る物との価値が逆転しつつあると言ってもいい。そうした企業行動の両義性を認識せずに,「ものをつくることがメーカーの使命」とばかり物づくりに専念したり、製造業こそ経済の基本と考えることは危険である。物余り時代(自然枯渇時代)には、物不足時代とは違った企業の役割やあり方があるはずである。
 企業の活動舞台の広がりも重要な変化である。企業の付き合いは急速に広がっており、企業を見る目はこれまでになく多様化している。そして、それが企業のあり方を変えつつある。そのひとつは、グローバリゼーションの進行である。日本企業が最近、コーポレート・シチズンシップ活動への関心を高めているのは、日本企業の欧米での活動が契機になっている。同様に海外企業もまた、日本での活動を通して、異質なものを学んでいるだろう。企業はまさに、ボーダーレス化しつつある地球を舞台に、新しい時代を開く先兵の役割を果たしつつある。
 ボーダーレスは国境だけの問題ではない。海外での活動には、当然のことながら文化や政治が関わってくる。その意味でも、企業は経済の世界にとどまっているわけにはいかなくなっている。もちろん国内においても事態は同様である。企業の行動は経済の垣根(ボーダー)を超えて広がりだしている。利益とは直接つながらない社会活動や文化活動を行う企業も増えている。そのことは、当然、これまでとは違った価値観との触れ合いを意味している。経済の論理で文化や福祉に関わることはできないはずである(現実には、それをやってしまって双方が傷ついているケースも少なくない)。
 企業を見る目が変わったもうひとつの理由は、社会における企業の存在が飛躍的に増大したことである。「企業社会」という言葉もあるように、いまや社会の主役は企業になってしまった。働く人の8割が企業に雇用されており、企業と関わりなく生活することは難しくなってきた。企業の社会的な影響力も増大し、その価値観や行動が社会を左右するといっても過言ではない。
 そうなると、逆に企業は勝手な振る舞いができなくなる。常に社会的な影響を考えておかなければならない。企業の存在が小さかった頃は見逃されたことも、今度は厳しい評価の目にさらされることになる。どこか一社だけでやっている分には、問題にならないことが、多くの企業が同様な行動をとることで問題を起こすこともある。「かんばん方式」がそのいい例だろう。「必要な時に必要な量だけつくる」ことを基本理念とし、在庫ゼロを目指すかんばん方式は,複雑な組立産業における在庫管理のムダをなくし、生産効率向上に大きな威力を発揮したが、多くの企業が採用することによって、いくつかの不都合が発生することになる。在庫補完のために部品を搭載したトラックの往来が増加し、道路やパーキングエリアに待機する輸送車が溢れるという本末転倒の現象が出現する。
 企業の所有する経営資源であろうとも、もはや「企業の勝手でしょ」というわけにはいかなくなっている。使い方が社会に大きな影響を与えるからである。そのことを忘れて、個々の企業が勝手な行動をとったことが、最近のバブル経済なのである。社会的に重要な意味を持つ土地を、市有地だからといって自由に処分したり放置したりすることは許されないし、資金にしても勝手に使っていいわけではない。
 企業の成功が、社会における企業の位置づけを大きなものにしてきたわけだが、その結果、企業は自由に行動する権利を得たのではなく、社会に対する責任を持ったのである。そこを誤解している企業経営者は少なくない。経営者が社会問題や文化に発言していくのであれば、行動もしなければならない。少なくとも、企業を見る社会の目をしっかりと受け止めなければならない。

●企業評価軸の変化
 社会の目の変化は、企業の評価視点の変化にあらわれている。例えば、日経ビジネスの企業研究の切り口は、以前は「強さの研究」だったが、5年ほど前から「良い会社」へと変わっている。「強さの研究」では、収益性や成長性あるいは財務体質の健全性が、企業評価の視点だった。経済や組織の視点で企業が評価されていたわけである。しかし、「良い会社」では、働きやすいかどうか、社会との関係はどうかなど、社員や社会の視点が重視されている。最近では、「美しい企業」「優しい企業」などという表現も増えており、環境や文化の視点も強まっている。僅か5年ほどの間に、企業モデルは「強い企業」から「優しい企業」へと激変し、その評価視点は非常に多様化してしまった。それは、企業とはそもそも何だったのかという議論につながっている。
 歴史の進歩は、そこに住む一人ひとりの生活をより良いものにしていくことである。そのためには、社会を良くしなければならない。社会を良くする方法はいろいろあるが、産業革命後、人類が選択したシナリオは産業を発展させることであった。そして、その手段として創出されたのが企業であり、貨幣経済の論理であった。その企ては成功したと言っていい。とりわけ、企業の成功は目ざましいものがある。個人主義的自由を前提とした貨幣経済体制の核として、企業は「豊かな社会」の実現に邁進し、見事、成功をおさめたのてある。社会は豊かになり、我々の生活も豊かになった。多少の歪みはあるものの、20年前の生活と今の生活を比較して考えれば、このことは否定しようのない事実である。
 だが、生活を豊かにするための手段だった産業と企業が、次第に目的化し、いつの間にか産業の発展と生活の豊かさとが乖離し始めた。そして、生活のために企業で働いていた人々が、企業のために生活を犠牲にするようなことが起こりだしたのである。企業経営者も、社会を豊かにするのではなく、社会を市場として企業を豊かにしていく姿勢を強めてきた。このままいくと、社会のすべてが市場化されかねない。
 ピーター・ドラッカーは、企業の役割は「顧客の創造」であると述べたが、それは企業サイドの勝手な言い分であって、社会的な視点は微塵も含まれていない。当時は、それなりの意味があったのかもしれないが、そうした発想が企業と社会とを分断してきたことを反省すべきであろう。企業の目的は「顧客の創造」などでは全くなく、「人々の生活の向上」でなければならない。産業が優先されたのは、それが人々の生活を豊かにすることにつながったからであり、それを忘れた産業優先は意味がない。改めて生活優先社会が語られ出した意味は、そこにある。
 社会の目の変化は、人々の行動の変化につながっていくが、新しい企業評価軸づくりの動きについて触れておこう。
 米国の非営利組織 Council of Economic Priorities (CEP)は、一昨年、消者向けリポート" Shopping for a Better World "を発表して話題を呼んだ。これまでのような財務指標や抽象的なイメージで企業を評価するのではなく、具体的な評価項目を明確にし、それに基づいて企業の評価を発表した。そして、消費者に対して,社会に貢献している企業を支援していこうと呼びかけたのである。それは同時に、企業のあり方に対するメッセージ(ガイドライン)でもあった。その評価基準(表1)については異論もあるだろうが、少なくともそこには新しい企業モデルへの提案が含まれているし、具体的な言葉で企業と対話しようという姿勢が見られる。
 同様なものにバルディーズ原則がある。1989年、エクソン社のタンカー"バルディーズ号"がアラスカ沖で原油流出事故を起こしたのを契機に、米国の環境保護団体が提案した「企業が環境を保全していくために守るべき10原則」である。これも新しい企業評価軸の提案になっている。
 日本でも同様な動きが見られる。まだ十分なものとは言えないが、社会が企業に具体的な提案をしはじめたことは評価しておくべきだろう。こうした動きに対する企業側の批判はよく耳にするが、企業側からきちんとした対案が提出されているわけではない。最近、企業は社会との対話姿勢を強めているが、こうしたテーマこそ恰好のテーマであるはずなのに、大変残念なことである。

<表1> Shopping for a Better Worldの企業評価要素(1989年版)

・慈善活動の寄付しているか

・経営層に女性はいるか
・経営層に少数民族がいるか
・兵器に関わっていないか
・動物実験をしていないか
・企業情報を公開しているか
・地域に貢献する活動をしているか
・原子力産業に関わっていないか
・南アフリカ共和国と取引していないか
・環境保全に積極的か
・家族への配慮は充分か

                                                                                                                                           
●企業は価値の創造者か
 改めて企業の役割を考えてみよう。企業は労働力をはじめとした生産要素を使って、そのままでは人々の役に立たないもの(原料)を、人々に役立つ製品やサービスに転換して社会に提供する役割を果たしている(企業活動モデルT)。企業は価値の創造者であり、企業活動が増大すればするほど社会は豊かになるということになる。社会はその見返りとして企業に利益を与え、その活動の発展を支援する。これがこれまでの企業モデルであり、企業活動は生産関数として捉えられ、それを効率化することが経営課題であった。

 <図1> 企業活動モデルT


 このように企業活動がただ価値を創造するだけであれば、問題は簡単である。企業活動は人々の生活を豊かにし、日本企業の成功は世界から歓迎されたはずである。働きすぎが批判されることもなかっただろう。そうならなかったのは、このモデルが企業活動の一面しか語っていないからである。視野をもう少し広げて、企業活動を整理したのが企業活動モデルUである。

  <図2> 企業活動モデルU


        
                                               
 原料は結局のところ自然につながっていく。自然が稀少価値をもちだしている現在、自然の原料化は必ずしもプラスの価値だけではなく、「消費的側面」を強めている。また、労働力などの生産要素は社会資源でもある。人手の余っていた時代には、企業が働く場を提供することは社会的にも価値があったが、人不足の状況では事情は反転している。人だけではない。土地や資金も、企業が取り込むことによって、それらは他の目的には使えなくなってしまう。つまり、社会的には機会損失という側面を持っている。企業がそれらをどう活用するかによって、それぞれの価値が発揮されたり浪費されたりすることになる。
 製品やサービスの社会への提供は、文化の提案でもある。物不足時代には、物やサービスの機能が重要だったが、物余り時代には機能的側面よりも意味的文化的側面が重要になっている。ある商品やサービスが社会の文化を大きく変えた事例はいくらでもある。なかには、当然マイナスの価値(機能に比べて文化や意味は個人に帰属するため、社会的評価は難しいが)を与えたケースもあるだろう。製品やサービスを提供することが、それだけで価値を持っていた時代は終わり、その内容が吟味されなければならなくなっている。売れるから、顧客が求めるからといって、製品やサービスが正当化されるわけではない。社会的視点に立った文化的アセスメントが必要になってきている。
 モデルTとモデルUの最大の違いは、廃棄物を視野に入れるかどうかである。企業が社会に提供しているのは製品やサービスだけではない。社会にとって不利益になるような廃棄物も出している。メーカーだけに限らない。サービス提供のためにも、必ずエネルギーや物財の消費があり、企業活動は必ず廃棄物を生み出している。企業の存在が小さく、自然の浄化力で消化できていた時代はよかったが、ここまで企業活動が大きくなると,廃棄物を無視したモデルはありえない。

●企業の価値バランス
 企業活動はプラスの価値とマイナスの価値をつくりだしている。モデルUに基づいて考えれば、企業が果して価値の創造者と言えるかどうかは疑問である。これまでの経営学の多くは、モデルTに基づいて、企業内部の経済性と効率性を議論してきたが、これからはむしろモデルUに基づいた社会的な経済性と効率性を考えていく必要がある。そのことは、必然的に企業利益とか企業の永続性の見直しにつながっていく。
 社会的な視点で考えれば、企業活動の拡大につれて、プラス価値の増加は逓減し,マイナス価値はある段階から急増することが推察される。モデル的に示せば、図3のようになるだろう(横軸には企業規模や活動寿命などを置いてもいい)。これまでの企業活動は、おそらくプラス価値の創造に視点が置かれていた。つまり、図のAのラインが基準になっていた。しかし、それでは企業活動を正しく評価しているとは言い難い。社会が企業を見る場合は、プラス価値だけではなくマイナス価値の創造も視野に入れて、加減した正味価値で評価することになる。つまり、図のCのラインである。企業の評価基準の変化は、AラインからCラインへの移動に他ならない。
 Aライン発想では、次第に伸び悩むとは言え、右上がりになっているが、Cラインはあるところから水準が低下し、ついには正味マイナスになってしまう。ある段階、図のXポイントを越すと、社会的には有害な存在になってしまうのである。これも、これまでの企業モデルにはなかった発想である。
 どこかに企業活動の最適解があるはずである。そのバランスを考えながら、企業活動の限界や方法を社会的に決定していくことが必要だろう。拡大至上主義の日本企業は、もしかすると、このX点に限りなく近づいているのかもしれない。既にX点を越えてしまった企業もあるだろう。それが、日本企業が批判されるひとつの理由ではないだろうか。企業は自らの内に、適正規模思考を埋め込んでいくことを求められ始めたのである。

 <図3> 企業活動の価値バランス 


                                                                                                                                                      

 AラインからCラインへの移行によって、様々な経営活動は見直しを求められていく。その基本は価格政策である。現在の価格体系はAラインをベースにしている。Bラインで発想すれば、価格体系は大きく変化するはずである。価格体系が変化すれば、需給構造や収益構造も変化していく。新しい企業モデルへの移行は、実は新しい産業構造への移行であり、新しい就業構造への移行である。それはもはや個別企業の問題ではない。ある企業だけが、Cライン発想に転じることは、それこそ「救命艇問題のジレンマ」(救命艇の定員を超えた人が海中に溺れている時に、利他主義者は進んで犠牲になり、生存者は自己主義者になってしまう)に陥ってしまうことになる。
 しかし、だからといって、従来の発想でマイナス価値問題を解決すべきではない。例えば、廃棄物問題に関連して「静脈産業」を主張する人がいる。「今までの産業は『動脈産業』だった。その結果さまざまの廃棄物を出してきた。『静脈』はその廃棄物処理をするものである。これからは『静脈産業』の時代になる。もしかすると『動脈産業』と同じくらい『静脈産業』が大きくなるかもしれない。発想が大きく転換して、新しいマーケットができる。新しい産業が生まれる」2)というのがその例である。俗耳に入りやすい議論ではある。しかし、大きな落とし穴がある。
 静脈産業発想を認めれば、企業は営利事業によって社会的問題を発生させ(顧客創造)、その問題解決(顧客ニーズへの対応)のために新しい営利事業が成立するという無限の産業化の世界に陥ってしまうことになる。これは、まさにこれまでの企業の論理であった。静脈産業も当然、廃棄物を排出するから、地球環境はますます悪化することになる。問題は先送りされ、一層深刻になるだけの話である。エントロピー概念を入れて考えれば、問題はより明確になるだろう。「発想を大きく転換」するとは、静脈産業論を認めることではなくて、企業構造を変えることである。理想的にいえば、廃棄物という発想を持たない企業モデルを構想することである。

●企業の社会活動の捉え方
 企業の社会的貢献の議論に関連して、コーポレート・フィランソロピー(公益活動)や企業メセナ(文化支援)が話題になっている。企業評価軸の変化に対応した企業の動きとして注目されるが、これらは企業活動の価値バランスの中でどう考えればいいだろうか。 図3に即して考えれば、ふたつの考え方がある。ひとつは、企業利益をAラインへの報酬と考える立場である。この場合は、利益の社会還元という発想になりがちである。フィランソロピーやメセナの本来的な意味はここにある。利益の還元であるから、ある意味では「恩恵的」なものであり、その使途も限定されることはない。経済活動としての事業とは直接関係のない分野にも向けられることになる。1%クラブや企業メセナ協議会は、この発想のもとに構想されている。
 企業利益をCラインへの報酬と考えても、フィランソロピーやメセナを利益の還元と考えることはできるが、違った発想も出てくる。Bラインを改善するという発想である。ここでは、自らの事業活動に関連した社会活動や文化支援か行われることになる。利益の社会還元ではなく、むしろ利益を増大(確保)するための活動になる。もちろん、それは直接的に事業利益につながるわけではない。例えば、運送事業会社が交通遺児支援を行うというようなケースを考えてみればいいだろう。使途は限定され、姿勢は「共生的」になるという点でAライン発想とは異なったものになる。
 どちらが正しいという問題ではないだろうが、前者にはいくつかの疑義がある。なぜ、企業が事業と関係のない公益活動をするのかという問題である。このことは、既に米国でも問題になり、フリードマンらの手厳しい批判が出されている。一応、裁判で決着がついているということになっているが(1953年のスミス事件最高裁判決で企業のフィランソロピー活動が正当化された)、それはそうした活動が長い目で見れば企業の利益につながるという認識( enlightened self-interest)のためである。そこを曖昧に考えてはなるまい。利益の社会還元は、一見、妥当のように見えるが、多くの問題を含んでいる。
 例えば、メセナに関連して、「日本の優良企業は今こそ『メディチ化』して、世界をアッと言わせてはどうか」という発言がある。3)メディチとは、いうまでもなくルネサンス時代の文化パトロンだったメディチ家である。確かにメディチ家は文化支援活動もしただろうが、それ以上に文化を破壊した存在であり、何よりもその陰で多くの人々が悲惨な目にあっていたことを、発言者はどう考えているのだろうか。フィランソロピーやメセナは、富めるものの施しであってはならない。
 企業の社会貢献は、あくまでも本業との関わりの中で考えられるべきだろう。図3のBラインこそ企業が考えなければならない問題である。そこを無視した活動は道楽であるか本業のマイナスの免罪符になりやすい。したがって、そうした活動は企業業績によって極端に増減しやすい。社会活動や文化活動をCラインで考えれば、むしろ業績をあげるための活動になるから、業績とのリンクは別の形になるだろう。
 もし、企業が利益の社会還元をするのであれば、少なくともその運営についての社会的チェックは受けるべきである。「陰徳」として社会の目に触れずに社会還元するという考えもあるが、とんでもない間違いである。陰徳が評価されるのは、あくまでも個人の話であり、社会的存在である企業がやるべきことではない。誤解してはならない。もうひとつ注意すべきことは、経済の論理と文化や社会の論理は同じでないということである。企業による善意の社会活動が、逆に文化や社会に歪みを起こすケースも少なくない。
 企業が社会活動に関心を持つことは望ましい。しかし、その関わり方は安直であってはならないし、企業モデルのなかでのしっかりした位置づけが必要である。

●おわりに/企業の社会性が企業進化の鍵
 企業が変わり目にきていることを考察し、それに関連した社会や企業の新しい動きについて考えてきた。新しい動きはあるものの、企業不祥事は一向に少なくならないし、むしろ構造化しつつあることも指摘した。企業不祥事がなぜ起こるのかについては、さらにもうひとつの論考が必要だろうが、これまで述べてきたことから答はほぼ引き出すことができるだろう。企業の自閉性(企業の常識と社会の常識の乖離)、経済合理主義信仰、企業人の生活感覚の喪失などが改まらない限り、事態は変わらない。企業の社会活動は、実はそうした企業の論理を見直す契機になるところに最大の意義がある。企業も社会も、そのことに気がつかなければならない。
 いま、企業に求められているのは、自らを経済的存在から社会的存在へと進化させることなのではないだろうか。そのために、企業は自らの社会性を見直し、もっと社会に開かれた存在にならなければならない。そのために、ふたつのことが重要である。
 第一は、企業の社会観の見直しである。これまで企業は社会を市場と考えてきた。自社の製品やサービスを購入してもらう「製品市場」「サービス市場」、必要な労働力や資金を入手する「労働市場」「金融市場」というのが、これまでの企業の社会観だった。だからこそ、企業は社会とはやや目線の違う高みに自らを置いて、「社会研究」や「生活者研究」をしてきたのである。「共生」ではなく「観察」であり、そこから「何がとれるか」が最大の関心だった。そして、社会の隅々を「市場化」してきたのである。それが「経済のソフト化」の一面でもある。
 そろそろ、その考え方を捨てるべきだろう。社会は企業にとって、市場である前に、自らの存立基盤であることを認識すべきである。ここまで企業が大きな存在になり、社会の汎市場化が進むと、社会がおかしくなって一番困るのは企業である。米国企業が社会活動に最近力を入れてきたことの背景は、米国社会の荒廃であるという指摘もあるが、まさにしっかりした社会は企業存立の基本条件である。社会から何がとれるかではなく、社会に対して何ができるかが、企業の社会観でなければならない。それは、日本にあった商人道の原点でもあった。
 第二は、企業内部の社会の見直しである。企業文化ということが最近盛んに言われるが、企業はそれぞれに個性的な社風を持っている。換言すれば、個々の企業がひとつの社会を形成している。歴史が長ければ長いほど、また規模が大きければ大きいほど、企業内部で完結しうる社会が存在する。勤務時間のみならず、休日までゴルフなどで会社仲間と付きあうことも少なくない。社宅制度のために、家族まで巻き込まれていることもある。いわゆる社員の丸抱えである。とりわけ大企業と言われる企業では、外部の社会とほとんど接点をもたなくとも、生活していくことが可能である。
 だが、企業内社会と広い意味での社会とは別のものである。企業と社会の壁が存在している以上、いつの間にか、企業内社会と外の社会との乖離が生ずることは避けられない。その結果、社会の常識とは違った企業の常識がつくりだされ、それが企業不祥事につながっていく。社会に対して損失を与えるばかりでなく、企業自身にも損失を与えることは、最近の事件が明確に物語っている。重要なことは、企業の内部に時代に息吹くイキイキした社会が確立されているかどうかである。ほとんどの日本企業は、そうはなっていないように思われる。それをそのままにして、コーポレート・シチズンシップを語ることは、むしろ危険なことではないだろうか。
 企業は、自らの成功の故に、経済の世界から広い社会に出てしまった。もはや、経済の論理だけで企業を考えることは適切ではない。社会や文化、さらには政治に関しても、企業は積極的な関心と関わりを持っていかなければならなくなっている。経営学もまた、企業内部や市場関係だけに目をやっていては現実に追いつけなくなるだろう。企業パラダイムの転換は経営学パラダイムの転換でもある。
 新しい時代に向けて、企業は変わらなければならない。その姿はまだ明確ではないが、方向性は少しずつ見えてきた。いま、時代が求めていることは、「企業の社会性」である。企業は自らの目線を社会に合わせ、自らと社会の間にある壁を取り壊し、自らを開いていくこと、そして企業人は生活者であることを自覚すること、それがこれからの企業の姿勢でなければならない。「共生」を語る経営者は少なくないが、「共生」している経営者は多くない。それでは、いつになっても企業は変わらない。
 同時に、社会もまた、変わろうとしている企業を支援していく必要がある。企業批判は簡単なことだが、それだけでは前進しない。社会とは別に企業があるわけではない。企業と社会を分断するような企業批判は避けるべきだろう。社会の側にも、企業との共生を志向する姿勢がなければ、企業進化は進まない。企業の問題は社会の問題なのである。

 1)『わたしが企業にのぞむこと分析報告書』コンセプトワークショップ 1989
 2)田原総一郎『日本社会を読む九つのキーワード』月刊サンサーラ1991年2月号
 3)岩渕潤子『ニューヨーク午前0時美術館は眠らない』朝日新聞社 1989 8頁   

佐藤修/1990