自治の原点に戻って、新しい自治体づくりの風を起こしたい
自治体解体新書(ソフト化経済センター 1996)から抜粋転載

この小論は、自治体職員や企業人などと一緒に楽しく議論した研究会の報告書に私が寄稿したものです。古いものですが、私のその後の行動の原点です。この報告書で、新しい風の会を呼びかけましたが、失敗しました。その再起プロジェクトが「風のまち」です。風のまちから、そのバーチャルシンクタンクとしての[新しい風の会]を実現したいと思っています。

1. 報告書序文

● 破綻しつつある行財政の現実

 地方の時代と言われだして久しい。最近では地方分権も進みだし、行政の中心も少しずつ地方に移りつつある。社会の成熟化に伴って、人々の関心も自分たちの住んでいる地域に向かいだした。地方自治体の役割は高まる一方である。
 しかし、不安がないわけではない。
 その第一は財政破綻の危惧である。国債残高は二百兆円を超え、償還のための財源をまた借金するという羽目に追い込まれている。家計に直せば、住宅ローン返済に給料だけでは賄えず、また借金を繰り返すのと少しも変わらない。百二十兆円に及ぶ地方債残高を抱える各地方自治体においても、その状況に変わりはない。現在から未来を保障するために行うはずの公共投資は、いまや未来から現在を保障するために「借り」だけを膨らませてしまっている。高齢化社会の展望を開くどころではない。
 施策上の諸問題や行き詰まりも山積している。「住民の安全と財産」を守るべき行政が阪神大震災で露呈した欠陥、数々の開発計画の頓挫と無残な環境破壊、ビジョンなきばらまきに終始する福祉政策、いじめに対する教育現場の無力、ゴミ処理問題など生活に直結する場で顕在化する行政の論理と住民意識の乖離、あげだしたらきりがない。
 こうした事態は、個々の施策の失敗によるというよりも、財政破綻に象徴されるように、構造的な行財政の枠組みに起因していると考えるべきだろう。これまでの延長での行政改革や地方分権をいくら進めても事態は変わらない。構造の見直しが求められている。

● 自治のダイナミズムへの期待

 国民主権のわが国において行政とは、「人々の生活を豊かにするための仕組み」である。論理的には行政の主語は「国民(住民)」である。誰かが国民を統治するための仕組みではなく、国民が自治するための仕組みなのだ。行政とは「自治」の能動的構造に他ならない。従って、行政構造の起点は「自治」のダイナミズムに求めるべきであり、行政システムという構造そのものを問題にする場合には、その根底にある「自治」に焦点を当てなければならない。
 いつの頃からか、行政システムはこの「自治」のダイナミズムを見失い、そこから遊離し、むしろ自治を抑制する循環にはまりこんでしまった。いや、そもそも「自治」のダイナミズムははじめからビルトインされないままに上滑りを続けてきたと言うほうが正確だろう。現在生じている様々な問題は、どこをどう取り繕うとその循環プロセス自体を脱しない限り、別の局面で繰り返されることになる。
 「自治」のダイナミズムがもっとも強く存在する場所−−それは地方自治体であることは言うまでもない。そして、その視点で眺めれば、「地方自治体」という呼び方さえ矛盾していることに気づく。「自治」には、地方や中央という概念は存在しない。地域があるだけだ。「地域自治体」と言うべきだろう。表現をそう変えるだけで、行政改革や行政構造、さらには行政施策に対する新たな視野が開けてくる。
  
● 自治の出発点は「賢くない」住民

 わが国の地方自治とは、「一定の地域を基礎とし、国からある程度独立した地方公共団体が設けられ(団体自治)、その事務を地域住民の参加と意思に基づいて処理する(住民自治)こと」(出典:現代用語の基礎知識)とされている。明治21年の地方自治制は団体自治を基本としていたが、第二次大戦後、住民自治が大幅に取り込まれ、日本の地方自治は大きく前進したと言われている。しかし、それはあくまでも行政制度上の「中央地方関係」のことであり、所詮は「官治的」とも考えられる。最近の「地方分権論」に対しても役所間の権限争いという批判もある。
 「自分たちのことを自分たちで処理すること」という自治本来の視点から、地方自治の主権者である市民が中心となった問題解決やまちづくりを重視する「市民参加」論もあるが、そこでの主権者はなぜか「住民」ではなく「市民」と表現されることが多い。多くの場合、「市民」は地域エゴから自由な「賢い住民」と捉えられている。
 こうした議論にはすべて、その根底に住民不信という発想がある。確かに現実的に考えれば、住民(それは私であり、あなたであるが)の行政依存体質や無責任さは否定できない。そこに地方行政の大きな悩みもあるのだろう。しかし、住民が賢くないとしたら誰が賢いのだろうか。国や地方自治体の職員が賢いのだろうか。「賢い住民」という「市民」はどこがどう賢いのだろうか。もしそうだとしても、「賢い人」が「賢くない人」をなぜ統治することができるのか。それが自治や国民主権となぜ言えるのか。しかも、そうした「賢い人達」による行政がいま破綻に瀕しているとすれば、「賢さ」とは一体何なのだろうか。
 自治の出発点は住民を信ずることである。住民を賢くないと決めつけるのであれば、最初から自治などと言わなければいい。何を基準に賢さを測るのかわからないが、もし賢さというものがあるとすれば、それは「自治」を通して学んでいくものなのではないだろうか。たとえ「賢くない」としても、住民を信ずることから自治がはじまり、そこから行政の構造を変革するダイナミズムが生まれてくる。
 
● 自治の原点に立ち返っての新しい自治体づくり

 日本の地方自治はシャウプ勧告を契機とした戦後の地方自治法によって始まったという議論がある。しかし、それは統治の一形態としての自治制度の話であり、生活レベルでの自治という点から考えれば、当然のことながら自治の実態はそこから始まるわけではない。むしろ近年、行政の領域の拡大に伴って「自治の仕組み」を後退させている面も少なくない。自治組織としての町内会や地域共同体は自治性を失い、相互扶助の文化も弱まっている。行政における自治と生活における自治とは混同すべきではないが、実際には両者は深く関わっている。
 地域経営という点でも,地方自治の高まりとは裏腹に、江戸時代の各藩の動きや明治時代の自治制の実態に比べて、必ずしも地方自治が前進しているわけではない。むしろ中央集権が進んでいるという議論もある。確かに日本国内どこもかしこも風景が画一化しつつある現実を考えると、日本における自治とは何かを考えさせられる。
 時代は大きな変わり目にある。行政の構造も自治体の構造も根本から見直すべき時期にきている。戦後の地方自治の歴史がすべてではない。そこから自由になって、もう一度、生活の自治の原点にもどって考え直せば、また違った展望が開けてくる。
 いま進められている行財政改革は緊急な課題であり、現実的に取り組んでいくことが必要なことは言うまでもないが、同時に長期的な構造変革を意識した理念的な取り組みがなければ後に禍根を残すことにもなりかねない。特に重要なことは、「自治のダイナミズムを行政構造にビルトインすること」である。自治の原点に立ち返っての新しい自治体パラダイムの構築が求められている。

 この報告書は、新しい時代を担う「地方自治体」に対する熱きメッセージである。新しい時代が求める新しい自治体のあり方を考えるひとつの契機になれば、われわれとしてはそれに勝る喜びはない。
 逸脱や早合点も少なくないだろうが、思いの熱さに免じてお許しいただければ幸いである。

*「住民」と「市民」という言葉が区別されて使われているが, 地方行政において必要なのは「住民の視点」である。1960年代以後, 市民発想が重視されているように思われるが, そこに「ボタンのかけちがい」があったように思われる。

2.自治体行政のニューパラダイム

●統治から自治へ

 「自治」の原点に立って今後の自治体行政のあり方を考えるためには、まず発想のベクトルを「統治」から「自治」へと反転させなければならない。発想の起点は国家ではなく、個人の生活ということになる。行政は個人生活を管理するものではなく、支援するものであるという本来の役割が改めて確認される。
 権限の流れも反転し、個人から自治体経由で国家に向かうことになる。生活の基本は個人の自己責任と相互扶助であり、それでは対応が難しい問題が自治体組織に委ねられ、さらにそこでも難しい問題が機関委任事務として国家へと委託される。税金もそれに応じて流れることになる(中央交付金)。
 地方分権は、あくまでも「中央の権限」を末端の地方に分け与えるというイメージだが、むしろ流れは「分権」ではなく、地域主権を基本として地域を超える課題に関する権限の「集権」という捉え方が必要になる。
 「参加」の方向も反転する。主役は住民であるから、住民参加ではなく、住民活動を支援するために行政が参加することになる。
 こうした視点から次の三つのパラダイム・シフトが導き出される。
 @与えられる分権から選択的分権へ
 A管理する行政から創造する行政へ
 B依存する行政から自立する行政へ

●自治体の主役は住民

 自治の前提となる住民観も変えなければならない。「賢い住民」を前提とした自治から「住民は賢い」という前提に基づく自治へ、である。人間不信の高い目線から物事を考えるのではなく、すべての住民と同じ目線に立った人間信頼を基本に物事を考えることで、行政事務は大きく変わるはずである。諮問委員会の構成や総合計画づくりも今とは全く違ったものになるだろう。長期的には行政の負担も軽減されるはずである。
 情報公開に対する考え方も一変する。本来、行政の持つ情報は主権者である住民のものだから、すべての分野で情報公開が原則にならなければならない。例外的に非公開の情報もあるだろうが、それを決めるのは住民であって行政ではない。原則と例外が反転する。
 こうした視点から次の二つのパラダイム・シフトが導き出される。
 Cアクターからプロデューサーへ
 Dお上からカタリストへ

●ホロニック・コミュニティ

 住民一人ひとりが個性ある生活を通して自己実現していると同時に、地域社会全体が調和のとれた独自の個性と活力を創造し、しかも未来に向けて生き生きとダイナミックに成長し続けている。これがこれからの自治体行政が目指すべき社会のイメージではないだろうか。
 住民どうしは相互に支援しあいながら、それぞれに刺激を与え合う関係にある。また個々の住民は自主的に活動しているが,実際には地域社会を構成する他の住民や組織と情報交換しながら、社会全体の調和を組み込んだ形で活動し(時には一時的な逸脱行為はあるが)、結果として地域社会全体の秩序を創出している。住民が地域社会全体を、社会全体が住民個々人の活動を、それぞれ支援的に規定している。地域社会の豊かさや誇りは、住民一人ひとりの豊かさや誇りにつながっている。こうした社会は、たとえば家族やかつての地域共同体を思わせるが、ひとつの違いは個人が自立しているということである。
 このような、全体と自立した個のダイナミックな調和関係を「ホロニックな関係」と言うが、まさにこれからの自治体行政の目指すべき社会はホロニック・コミュニティであり、自治体行政のモデルもホロニック・ガバメントと言っていいだろう。

3.アクションへの第一歩

●自治の始まりは住民

 「アメリカ人という連中は世界でも特異な存在である。仮に一市民が自分の地域社会のある必要が満たされていないことに気づいたとする。すると彼は、さっそく通りを隔てた隣人のところに出かけていき、その問題を議論する。その結果、何が起きるかといえば、委員会が誕生することになる。しかも一切の役人との関わりなしにである。一般の市民が自分たちの発意でここまでもっていくのである。」
フランスの思想家トクヴィルが19世紀初めにアメリカを旅行して書いた『アメリカにおける民主主義』に出てくる話である。住民自治の原点がここにある。
 わが国の自治がなかなか前進しないのは、住民に市民的自覚がないからだとしばしば言われる。戦後の地方自治法が想定した「賢い住民」の理念と現実の住民の自治意識の大きなギャップが、結局は住民自治を育てなかったという意見もある。しかし、理念と現実とは常にギャップのあるものであり、それが自治を阻んだ根拠にはならない。

●住民の自治意識を育てる責任

トクヴィルの指摘は、わが国の村落にもよくあった風景であるような気もするが、それはそれとして、そのギャップを埋める方向での行政活動が行われた痕跡は少ない。むしろ行政の過剰介入が住民の依存心を高めることが多かったのではないか。
自治体は住民に対するサービス機関などではない。住民ニーズを把握することは必要だが、それにいちいち応える必要もない。ニーズに対応することは、それに必要な経費を住民に負担させることであり、そこを曖昧にしての過剰な「ニーズ」対応が財政破綻の一因だったことを忘れるべきではないだろう。
 住民の責任や義務をしっかりと住民に伝え、住民の自治意識を高めるとともに、それを果たす仕組みや場を効果的に設定していくことこそ、行政の最大の仕事のひとつであって、住民が「賢くない」「成長しない」などと嘆くのは、それこそ自治の自覚が欠如している。情報をしっかりと提供するだけでも、住民の自治意識は飛躍的に高まるはずである。
         
●住民の意識変革と行動変容も必要

 しかし、自治体行政を革新し、ホロニック・コミュニティを実現するためには、住民の意識変革と行動変容が必要なことは言うまでもない。住民を信ずることから自治が始まるとすれば、それに応じて住民が地域への関心や自治意識を高めることで自治は完結する。同時に、自治体職員の自治意識が問われることは言うまでもない。その好循環が住民と行政との真の共創関係を成立させ、自治の実体をつくっていく。
 住民は行政にサービスを期待するのではなく、行政を能動的に支援する存在にならなければならない。行政活動は自分たち住民の負担で行われる活動であるという認識がしっかりあれば、行政へのサービスの期待と行政支援とは、直接的か間接的かの違いはあれ、結局は同じだということに気づくはずである。現在のように行政領域が拡大している状況においては、行政を通すよりも自ら行うほうが効率的かつ効果的のことが少なくないことにも気づくだろう。当然、負担も少なくなる。J・F・ケネディが大統領就任に当たり、「国家が何をしてくれるかではなく、国家に対して何ができるかを考えてほしい」と呼びかけたのは、極めて理にかなっている。
 自治という仕組みの中では、住民の受益と負担はマクロ的にはバランスしている。行政から受けた便益は結局は自分が負担しているのであり、自分が果たした負担は結局は自分の利益につながっていく。そうした因果関係をどれだけ実感させられるかが行政の課題であり、どれだけ実感できるかが住民の課題である。

●住民エゴも自治意識の出発点

 行政に依存している限り、自治意識は出てこない。住民に自治意識がない限り、自治体の自治は形骸化する。住民は依存から自立へと意識変革しなくてはならない。
 その出発点は、「自分のことを自分で処理する」という自治の精神が自らの生活においても実現していること、言い換えれば地域に根ざしたしっかりした生活をしていることである。抽象的な知識だけでは自治意識は生まれようがない。自らをきちんと治めることができてはじめて地域社会の自治が考えられる。自ら自立していない人が語る自治論にはどこか地に足がついていないところがある。
 住民エゴをどう考えるか。住民エゴは住民が「賢くないこと」の理由としてあげられることが多いが、むしろ自治の原点と考えるべきである。生活や地域への関心がそこにはある。自治はエゴから始まるものである。大切なのは、それに対する行政の対応である。
 住民エゴは自治の原点とはいうものの、そこにとどまる限り自治の地平は開けてこない。自らの権利を主張するとともに、自らの責任をしっかりと受け止めること、そして他の人の権利も公平に受け入れること、これらがあってはじめて、住民エゴは創造的な自治へとつながっていく。

●ホロニック・シチズンシップの育成
 ホロニック・コミュニティにおいては、住民個人と地域社会全体とが有機的に連鎖している。個人の活動が全体を介して、再び自らに影響してくることになる。その連鎖を理解し、個人生活と地域社会とを同じ視野で捉えて行動する住民をホロニック・シチズンと呼ぼう。
 住民はみんな、自分たちの地域を愛している。自分たちの地域をよくしたいと思っている。本質的にホロニック・シチズンなのだ。ただ、その連鎖が見えにくいために、あるいは活動の場がないために、ホロニック・シチズンシップを発揮できないでいる。
 住民の意識変革や行動変容は,もちろん住民一人ひとりの課題である。しかし、同時に行政としてやれること、やるべきこともたくさんある。プロデューサーとして、カタリストとして、住民が自らのなかに持つホロニック・シチズンシップを掘り起こし、育むような仕掛けをつくっていくべきである。
 仕掛けとして、たとえば次のようなものが考えられる。

@地域学
 自分たちの地域をもっと良く知るための仕掛けとして、自分たちの地域の歴史や地誌や文化を対象とする地域学の構築が有効である。
A住民サロン
 住民どうしが、また住民と自治体職員が気楽に地域のことを語り合う場がもっとあっていいだろう。
B住民情報システム
 地域情報システムの整備が盛んだが、まだ行政からの広報的発想が強い。もっと共創型の住民主役のシステムが必要だろう。
C行政との接点づくり
 行政への理解を深める仕組み(たとえば行政知識の学習会)と行政に「口を出す」仕組み(たとえば政策公開検討会)も効果的である。但し、オンブズマン制度のように住民と行政を対立させるのではなく、共創・支援関係におくことが望ましい。
D地域外の文化との触れ合い
 地域外の異質の風に住民が触れる場をつくることも有効である。それもできるだけ人間的な触れ合いを重視するのがいい。

4.報告書あとがき

新しい風を束ねて、新しい歴史をひらきませんか

●新しいミレニアムに向けての黎明期

 新しい歴史の始まりを感ずる。
 近代は終焉しつつある。私たちが普遍的と信じていた様々な価値観が音をたてて崩れつつある。世界の様相は、この数年で大きく変わってしまった。
 私たちの生き方も変わりつつある。変化の渦中にいると、なかなか実感できないが、おそらくいま、歴史は大きな変わり目にあるのだろう。
 一方では、哲学ブームに象徴されるように「生きること」の意味(文化)が問われはじめ、他方では、情報技術の発展が「生き方」の方法(経済)を根本から変化させつつある。ルネサンスと産業革命が同時に始まったようなものだ。
 しかも、舞台は地球を超えて宇宙へと広がりつつある。これまでとは全く異質な時代が始まろうとしている。
 自治体にパラダイム・シフトが必要なのは、まさにそのためである。自治体行政に「革命」が求められている。宇宙まで視野に入れた自治体行政というのは大仰すぎるとしても(全く意味がないわけでもないが)、これまでの枠組みから一度自由になって、発想を飛ばしてみることは大いに意味がある。

●自治体革命が世界を変える

 新しい歴史を開くには、この報告書はやや「飛びたりなかった」かもしれない。所詮は、お釈迦さまの手から出られなかった孫悟空。読み直してみると、なんとまぁ「常識的」なことを書いてしまったかという思いもある。
 しかし、ひとつだけ確かなことは、新しい歴史が始まりつつあるということだ。その兆しは既に様々な形で自治体の現実のなかに現れだしている。現実は常に理論に先行する。ただ見えにくいだけのことだ。
 歴史は小さな一歩から始まる。どんなに大きな変化も、始まりは小さな一歩である。この報告書の中にも、そうした小さな一歩があるかもしれないし、これを読まれているあなたの活動が、その一歩かもしれない。歴史の変わり目のおもしろさは、小さな一歩が大きな動きにつながることである。もしそうであるならば、大きな動きにつながる小さな一歩を踏み出したい。
 19世紀は国家が世界を変え、20世紀は企業が世界を変えてきた。21世紀は自治体が世界を変える時代かもしれない。しかも、時代は新しい歴史のはじまりの時代。
 日本の自治体からはじまる「小さな一歩」が世界を変え、新しい歴史を開いていく。考えただけでも痛快極まりない。気宇壮大な話ではないか。
 こまごました行政改革などに現を抜かしている場合ではない、とは言わない。しかし、大きな視野で新しい一歩を進めていくことは、歴史の変わり目を生きる者の努めである。

●歴史を創るために歴史に学ぶ

 新しい歴史に向けての一歩を踏み出すために、歴史を振り返ることも大切なことである。近代がルネサンスを通して古代から新しい知恵を学んだように、新しい歴史の源は必ず歴史の中にある。温故知新は歴史の変わり目においてこそ必要だ。
 今回、自治体行政の新しいパラダイムを考える上で、戦前の、あるいは江戸時代の歴史から学ぶことは少なくなかった。わが国の地方自治はシャウプ勧告からはじまったわけではない。その思い込みから自由になることから新しい一歩ははじまる。もちろん、学ぶべき歴史はわが国に限るわけではない。

●この報告書から始まる物語

 新しい歴史は一人の小さな一歩から始まるが、一人では歴史は創れない。小さな一歩が歩調を合わせて、大きな歴史を共創していく。
 自治の原点にもどって、新しい自治体づくりの風を起こしたい、というのが私たちの思いである。全国各地で始まっている「小さな一歩」を結束して、大きな風を起こしたい。この報告書を、そのためのささやかな契機のひとつにしたいと思っている。従って、この報告書は活動報告であるとともに、これからの活動の呼びかけ報告でもある。
 この報告書をプロローグとして、どのような新しい物語を始めるか。たとえば、次のような活動を考えている。志を同じくする人の参加を是非お願いしたい。そして、一緒になって新しい自治体づくりに取り組んで行きたいと考えている。

佐藤修 qzy00757@nifty.com:1996年3月