■相模原市の障害者施設での殺傷事件で思ったこと(CWS Privateからの転載)

○事件を見る視点(2016年7月26日)
相模原市の障害者施設で、痛ましい事件が起こりました。
今日のテレビは朝からその報道ばかりです。
その施設で半年前まで働いていた若者が、利用者19人を殺害したのです。
あまりの衝撃に、アメリカのホワイトハウス高官がコメントまで出しました。
私には、いかにも「白々しく」感じましたが。

こういう事件が起こると、私がまず考えるのは、加害者のことです。
もしかしたら、加害者こそが一番の被害者ではないかという気がしてならないのです。
実状を知らないくせに、そういう発想をするのは危険であることは承知していますが、昨今の社会情勢を考えると、どうもそういうところから「事件」を見るようになってきてしまっているのです。
なぜ学校の先生を目指していた、明るい若者が、こんな事件を起こしてしまったのか。
同じ時代を生きる私には、責任はないのか。

そういう視点で、事件の報道を見ていると、いつも不満に感じます。
事件の詳細や加害者の個人情報は詳細に語られますが、背景に関してはあまり語られることはありません。
障害者施設の働く現場や利用者の置かれている現場が、どうなっているのか、きちんと報道されることは少ないのです。

こういうことが2度と起こらないように対策を検討しますなどという、意味のない答弁ではなく、もし本当にこうしたことを起こしたくないのであれば、障害者施設の実態を変えていかねばなりません。
言い換えれば、それは「社会保障」の理念や社会の価値観を変えることになるかもしれません。
そうした根本的な社会のあり方に目をやらずして、軽々に対策などと語ってほしくはありません。

いまからもう45年前になりますが、「ルポ・精神病棟」という本が出版されました。
記者だった大熊一夫さんが、「アル中患者」と偽って、ある精神病院に入院した現場体験報告です。
その後、日本の精神病院は変わったと思いたいですが、最近の大熊さんの本を読んでも、その変わりようはさほど大きくはないような気がします。
数年前に私のところに来た精神病院のスタッフの方から、お聞きした話も衝撃的でした。
一時、改善されるかに見えた精神病院の実態は、また向きを変えつつあるような感じでした。

これは精神病院の話ですが、障害者施設はどうでしょうか。
見学はしたことはありますが、私自身は利用したこともそこで働いたこともありません。
ですが、その周辺からいろいろと聞いている話から、小さな事件が起こるたびに不安を感じていました。
そして今朝のこの事件。
やはり私が最初に思ったのは、加害者のことです。
はっきりいえば、加害者への同情です。
時代が、あるいは私たちの生き方が、彼を加害者にしてしまったのではないか。

今朝、そうした施設にも関わったことのある方から電話をいただきました。
こういう事件がいつか起きるのではないかと心配していた、とその方はお話になりました。
昔は、施設のスタッフも余裕があったし、スタッフと利用者が人間的な関係を持てたと言うのです。
いまはスタッフと利用者はもとより、スタッフ同士さえ、人間的な関係が持ちにくくなっていることは、私もいろんな人からお聞きしています。
私たちは、何かを大きく失ってしまっているのかもしれません。

事件の報道姿勢も、もしかしたらそうした事情を加速させているようにさえ思います。

ちなみに、今朝、電話をくださった方は、もしかしたら、私が「加害者」になることを懸念されていたのかもしれません。
そう考えるのはいささか考えすぎでしょうが、そうなってもおかしくない時代になってきているように思います。
今回の加害者の若者は、決して、私と無縁の存在ではないことを心したいと思っています。

○障害の所在(2016年7月26日)
障害者という言葉には、違和感を持っている方もいます。
「害」という文字に抵抗があるようです。
「障害者」ではなく、「障碍者」とか「障がい者」と書く人もいます。
私にはいずれも同じように感じますが、相手の思いを大事にして、使い分けるようにしています。
しかし、ある時、障害者の息子さんを持つ人から、そんなことはどうでもいいと言われたことがあります。
話す場合は、私は基本的には「障害を抱えている人」という表現を使うことも多いのですが、これもなんだか言い訳めいていて、自分でもすっきりしていません。

なぜすっきりしないのか。
それは、「障害」が人に置かれているからです。
そうなれば、人が「障害」になってしまいかねません。
その視点を変えなければいけません。

昨日の事件の加害者は、「障害者のいない社会」がいい社会だと発言しています。
これは危険な発想です。
なぜなら、障害のない人などこの世にはいないからです。
その範囲をどうやって決めるのか。

この言葉から、「者」と「い」という、2つの文字を削除して、「障害のない社会」と置き換えたら、誰も反対しないでしょう。
加害者が、そこまで思いを深めてくれたら、悲劇は起こらなかったかもしれません。
問題の本質は、そこにあるように思います。
彼が問題提起した時に、誰かがそのことを指摘してほしかった気がします。
いや、こうして事件が起きたいま、テレビで解説する誰かが、一人でもこういう指摘をしてほしいです。

障害の所在は個々の人にあるのではなく、人が生活する社会環境にあるのです。
そう考えると、障害福祉の捉え方は一変するはずです。
これは、障害者問題に限りません。
生きにくくなったのは、社会が「障害」を増やしているからなのです。
そして、そうした「障害」を増やしているのは、私たちかもしれません。

福祉の概念を一変させなければいけません。
それが行われないと、福祉は市場化の餌食になりかねません。
市場とは「問題」のあるところに生まれます。
障害を人に置いてしまうと、福祉産業という市場が生まれるのです。
私はこれを「近代産業のジレンマ」と呼んでいます。
近代産業は、問題解決型の発想ですから、人が障害を持つほどに市場は拡大します。
でもそれはどう考えてもおかしい。
人を基軸にして考える発想が、私には納得できます。

20年ほど前に、福祉や環境を産業化するのではなく、産業を、福祉化。環境化するようにベクトルを反転させなければいけないと書きましたが、残念ながらそういう方向にはまったく来ていません。
悲しい話です。

○措置入院への不安(2016年7月29日)
その後の相模原障害者施設事件の報道に接していて、世間は何も変わっていない、と思います。
自らの生き方を問い質した人は、どれほどいるでしょうか。
自分は今回の加害者とは別だとみんな思っているのでしょうか。
自らもまた、「障害者」だという認識を持った人はどれほどいるでしょうか。
相変わらず、「障害者」は特殊な存在だという報道ばかりです。
とてもさびしい気がします。
さらに不安を感じるのは、措置入院が問題になってきたところです。
問題が違った方向を向いているのではないのか。
私が、その対象になったらと思うと、恐ろしくなります。

この事件は、いまの社会の本質を示唆しているように思えてなりません。
加害者の考えは、許されないとか、異常だとか、みんなそう語ります。
もちろん私もそう思います。
しかし、だからといって、彼はいまの時代風潮と無縁なのか。
彼は、本当に、私とは別の世界の特殊な存在なのか。
そして、許されないと語っている人の中には、人を差別する意識はないのか。

いまの時代風潮をよく見れば、同じような風景はいたるところにみられます。
ヘイトスピーチは、そのわかりやすい例ですが、それだけではありません。
学校にも企業にも、程度の差こそあれ、それにつながる発想や言動はないのか。

私は、彼のような行動を支えている、時代の風潮を感じます。
それは、個人の尊厳をおろそかにする風潮です。
正規社員と非正規社員の構造の中にも、それを感じます。
出産前診断に見られるような、優生学的な発想の動きも少なくありません。
強いものが勝っていく競争を是とする社会そのものの中にも、今回の加害者の言動につながるものを感じます。
自分は加害者の言動と全く無縁だと断言できる人が、どのくらいいるでしょうか。
時代が、彼のような存在を生み出してしまったのではないか。
そんな気がしてならないのです。

障害を持っている人が、加害者に怒りを持つことは、当然です。
私も怒りを持ちますし、怒りをぶつけたい。
しかし、それで怒りを解消したくはありません。
もっと怒りを向けるべき相手があるのではないか。
障害者を障害者として扱う社会にこそ、怒りを持つべきではないのか。
彼に怒りをぶつけるのではなく、彼を生み出した社会に対して怒りをぶつけていかなければ、事態は変わらない。
私が、世間は何も変わっていないと思うのは、そうした報道ばかりが流れていることです。
みんな他人事としてしか語らない。
加害者を非難する前に、まずは自らの生き方を問い質すことが大事なような気がします。
私としては、自分の中にある差別意識にしっかりと対峙する機会にさせてもらいました。

前に書いたことがありますが、精神病院の脱施設化を実現したイタリアの話を思い出します。
どうやら日本は、それとは真逆の方向に向かっているようです。
障害者施設もまた、私は脱施設化を目指すべきだと思いますが、それが実現するには、多くの人たちが、障害者などという発想を捨てて、多様な人たちと、人として付き合う余裕を持つようにしなければならないでしょう。
すぐにはそれは難しいでしょうが、せめてそれを目指す生き方をしたいものです。

今回の事件ほどひどくはないとしても、同じような事件は決して少なくないでしょう。
私たちは、そうしたことへの関心をもっと高めていきたいものです。
もしかしたら、自分も加害者的な言動をしていないかの反省も含めてです。