イスラム国過激派による日本人殺害事件に関して思うこと
■ムスリム国家との関係の行方(2015年1月21日)
イスラム国による日本人殺害予告映像が流れ、大きな問題になっています。
とうとうここまできたかという思いでいっぱいです。
この映像には、いささかの違和感がありますが、それはそれとして、日本ももう戻れなくなりそうです。
信頼関係は、構築するのは時間がかかりますが、壊れるのは瞬時です。
その瞬時が、まさに昨年の7月1日だったのかもしれません。
憲法学者の水島朝穂さんは、最近の著書(「立憲的ダイナミズム」)の中で、こう書いています。
彼(安倍首相)が「閣議決定」でやったことは、憲法の大原則である平和主義の根幹(首)を斬り落とす「憲法介錯」にほかならない。
内閣は、憲法に違反する内容の「閣議決定」を行ったのである。
これは「平成の7.1事件」として記憶されるべきだろう。
「憲法介錯」は、憲法解釈に欠けて言葉です。念のため。
学者の言葉としては、いささか過激ですが、そこに水島さんの真情が感じられます。
「立憲的ダイナミズム」は数名の方が書かれている本ですが、そこにやはり憲法学者の君島東彦さんがこんなことを紹介しています。
NGOの一員として、12年間にわたってイラクの民衆に寄り添い、イラクの状況を見てきた米国の平和活動家、ペギー・フォー・ギッシュは、「イスラム国」に対する米国等の空爆はテロリズムを封じ込めることにはならず、むしろテロを拡散・強化することになるだろうと予想している。
まさにそうなってきています。
戦いの構図の捉え方を変えなければいけません。
これも君島さんの論文の中に出てきていますが、イギリスの国際政治学者ケン・ブースは、われわれにとっての脅威は、敵国の兵器や軍隊ではなくて、互いに対峠する兵器システム、戦争システムであり、われわれの敵は、攻撃しようとするテロリストではなくて、テロリズムを選択肢にしてしまうような歴史的不正義であるといっているそうです。
人同士の戦いではなく、人とシステムの戦いだと考えると、世界の風景は違って見えてきます。
いささかSF風に聴こえるかもしれませんが、チャールズ・ライクが半世紀前に喝破した通り、敵は「システム」なのです。
問題の構造を見誤ると、事態はますます泥沼化するようで不安です。
もうひとつ気になることがあります。
2004年のイラク日本人人質事件で起こった「自己責任論」ブームのような動きが出なければいいのですが。
当時の日本の有識者たちの反応は、いかにも哀しくさびしいものでした。
たとえば、上坂冬子さんの発言を知った時には、衝撃的でした。
http://c-oizumi.doorblog.jp/archives/51313768.html
こういう風潮に加担しないように注意しなければいけないと改めて当時を思い出しています。
そして、私たちの政府が何をしているかを問い直す契機にもしたいと思っています。
これは決して、私と無縁な事件ではないのですから。
■メアリー・カルドーの提言(2015年1月23日)
イスラム国による日本人拘束事件はまだ解決されずにいますが、この報道を見ながら、昔読んだメアリー・カルドーの「新戦争論」を思い出しました。
副題に「グローバル時代の組織的暴力」とあるように、カルドーは、戦争の概念を拡大し、国家間の戦争とは違った「新しい戦争」が生まれてきていることをとてもわかりやすく説いています。
出版した2年後に、9・11事件が起きていますが、日本語の翻訳がでたのは2003年でした。
そのおかげで、日本語訳には9・11事件に関する小論が付け加えられています。
そこで危惧されていることが、最近のイスラム国の動きをみていると、まさに起こっており、いまもって世界は的確な対応ができていないのではないかと思わせられます。
カルドーの指摘をきちんと受けて対応していたら、イスラム国事件は起きなかったのではないか。
世界は戦争の構図を読み違えてしまっているのではないか。
そんな気がします。
カルドーの指摘を受けて世界をみれば、かなり違った世界が見えてきます。
もしかしたら、今回の事件も起きなかったかもしれません。
安部首相のエジプトでの2億ドル発言への評価も、違って見えてきます。
カルドーの「新戦争論」の「日本語版へのエピローグ」だけでも読むと、世界の見え方が少し変わるかもしれません。
私が昔、メモしていた部分を少しだけ紹介します。
カルドーは、9・11事件をアメリカへの敵対行為としてではなく、「人道に対する罪」と表現しています。
イスラム対アメリカではなく、人道への攻撃と捉えます。
戦いの構図が変わります。
キリスト教徒もムスリムも、一緒になって立ち向かう構図になります。
人道に反する結果を引き起こす空爆行為は、その構図からは生まれないでしょう。
ではどういう対抗策がありうるのか。
カルドーは、「人道の原則に対する主体的関与と人間の多様性に対する尊重」を信条とする「コスモポリタン」のネットワークを育てていくことだと言います。
そして、グローバル化によって疎外され、困窮に陥っている人たちをどう支援していくかにこそ、暴力の連鎖から抜け出す鍵があるというのです。
とても共感できます。
しかし、私がこの本を読んでから10年近く立ちますが、相変わらず「古い戦争」の呪縛の中で、世界はますます暴力にシフトしているような気がします。
世界を捉えるパラダイムを変えなければいけないのではないかと、テレビの報道をみながら思い、カルドーの「新戦争論」を少しだけ、今日、読み直しました。
■イスラム国からのメッセージ(2015年1月25日)
イスラム国によって拘束されていた一人が殺害されたかもしれないという報道がなされています。
もし事実だとしたら、とても残念なことであり、その行為は許されるべきではありません。
しかし、その一方で、私にはとても気になることがあります。
ほぼすべての報道が、一方的にイスラム国を非難するだけであることです。
しかも、残虐だとか非道だとか、感情を込めた非難が繰り返されています。
もちろん、それを否定する気はありませんが、彼らがなぜそうした状況に追いやられているのかも考えるべきではないかと思うのです。
イスラム国のメンバーもまた、平和のために戦っていることを忘れてはいけません。
そうした想像力が少しでもあれば、事態は違った方向に向きだすかもしれません。
人の命が、もし大事であるとすれば、イスラムの人たちの命も同じように考えなければいけません。
最近の報道は、イスラム国側の非道さ、残虐さばかりを報道していますが、その「自分たちは正義」と言わんばかりの姿勢には違和感を持たざるを得ません。
報道されているイスラム国の姿勢と何が変わるというのでしょうか。
殺害予告の映像を見た時に、そして2億ドルの要求を聞いた時に、私が感じたのは、日本人に対するイスラム国からの強いメッセージでした。
私たちもまた、イスラム諸国の人たちが追いやられている世界を支えているのではないか、少なくとも、そうした世界状況に無関心のまま、中東での「非人道的な状況」を見過ごしているのではないか、ということを、イスラム国は警告しているのではないか。
さらに、日本はその道を意識的に進みだそうとしているのではないか。
昨年の集団的自衛権の閣議決定(7.1クーデター?)は、その始まりを予感させます。
そして、この時期におけるエジプトでの2億ドル支援も、そうした文脈で考えれば、人道支援に名を借りた体制づくりと受けとめられても仕方がないとも思います。
ましてや、こうした状況(拘束された2人の日本人の解放交渉を水面下で進めていたと思われる状況)のなかで、首相が声高らかに明言することは、イスラム国にとっては、実に挑発的な行為に見えても仕方がありません。
「お金」こそが、いまのような状況をもたらしてきたのですから。
念のために言えば、私はイスラム国を弁護するつもりもなく、日本政府を非難するつもりもありません。
ただ、私たちはこの事件でイスラム国の非道さを責めるだけでいいのかということです。
私たちの考え方や行動も、これを契機に問い直す姿勢が必要ではないかと思うのです。
少なくとも、私たちはもう少しイスラム世界のことを知る必要があります。
お互いに知り合い、学び合うことから、平和は始まります。
非難するだけでは状況は変わっていきません。
私が、カルドーの「新戦争論」を改めて読み直したのも、そのためです。
イスラム国からのメッセージを無駄にはしたくありません。
私たちはもっとイスラム世界で起こっていることに、関心を持ちたいものです。
そして、私たちがそこにどうつながっているのかを考えたい。
それこそが、グローバル化された世界の生き方だと思います。
そして、問題は、私の生き方にまでつながっていることを忘れたくはありません。
問題は決して「お金」では解決しないことも。
■子どもたちの目(2015年1月25日)
後藤健二さんの撮影した子どもたちの写真を少しだけ見せてもらいました。
後藤さんは子どもたちにも好かれていたようです。
それをみながら思い出した2つの記事を紹介します。
長いですので、今回はコメントなしです。
-
まずは先日読み直したカルドーの「新戦争論」に出てくるものです。
ノルウェー人の心理学者による、ボスニアの少年イヴァンとの面談記録です。
9歳の子供に、自分の父親が親友を銃で殺したことをどのように説明することができるだろうか?
私はその子自身にどう考えているかを話してくれるよう頼んだ。
彼は私の目をじつと見て言った。
「彼らは、脳にとって毒となるものを飲んでいるんだと思う」。
そして彼は突然付け加えた。
「だけど今はみんな毒におかされているから、きっと水の中に毒が入ってるんだと思う。汚染された貯水場をきれいにする方法を見つける必要がある」。
そこで私が子供も大人と同じように毒におかされているのかと質問すると、彼は首を振って言った。
「ううん、全然。子供の体は小さいから、毒もあまりたまらない。それに子供や赤ん坊はほとんど牛乳を飲んでいるから、毒には全然おかされていないよ」。
私は彼に、政治という言葉を開いたことがあるかと質問した。
すると彼は飛び上がらんばかりの勢いで、私を見て言った。
「そうそう。それが毒の名前だよ」
もう一つは、ヴィクトル・ユーゴーの情景詩「1871年6月」です。
1871年のパリ・コミューン事変について書かれたものだそうですが、私は最近読んだ川口幸宏さんの「19世紀フランスにおける教育のための戦い」で知りました。
同書からの引用です。
流れた罪深い血と清らかな血で染まる
石畳の真ん中の、バリケードで、
12歳の子どもが仲間と一緒に捕らえられた。
− おまえはあいつらの仲間か? − 子どもは答える、我々は一緒だ。
よろしい、ではおまえは銃殺だ、将校が言う。
順番を待っておれ。 − 子どもは幾筋もの閃光を見、
やがて彼の仲間たちはすべて城壁の下に屍となった。
子どもは将校に願い出た、ぼくを行かせてください、この時計を家にいるお母さんに返してくるから。
− 逃げるのか? − 必ず戻ってくるよ。
− このチンピラ恐いのだろ! 何処に住んでるんだ?
− そこだよ、水くみ場の近くだよ。だからぼくは戻ってきます、指揮官殿。
− 行ってこい、いたずら小僧!
− 子どもは立ち去った。− 見え透いた罠にはめられたわ!
それで兵士たちは将校と一緒になって笑った、
瀕死の者も苦しい息のもとで笑いに加わった。
が、笑いは止んだ。思いもかけず、青ざめた少年が
璧を背にして、人々に言った、ただいま、と。
愚かな死は不名誉である、それで将校は放免した。
それぞれから強いメッセージを受け取れます。
■「恫喝」よりも「祈り」(2015年1月29日)
矢部宏治さんの「日本はなぜ、「基地」と「原発」をとめられないのか」という本が話題になっていますが、その中で、矢部さんは自民党の憲法改正草案をみれば、日本の現在の水準は「近代文明の尺度で測れば、3歳の幼児くらいでしょう」と言われても仕方がないと書いています。
もちろん戦後、日本人のことをダグラス・マッカーサーが「近代文明の尺度で測れば、12歳の少年」と言ったことをもじっている言葉です。
私も自民党の憲法改正草案は、その解説まで含めてきちんと読みましたが、唖然とする内容です。
それに関しては、以前、このブログでも10回にわたり私見を書きました。
私のホームページにもまとめて転載しています。
http://homepage2.nifty.com/CWS/kenpo13.htm
自民党の憲法改正草案をきちんと読んだ人は、おそろしくて自民党には投票しなくなるだろうという気はします。
イスラム国日本人拘束事件の報道を見ていて、矢部さんが書いたことを思い出しました。
テレビ界に登場している人が、もし日本人の知的水準を示すのだとしたら、いささかおそろしさを感じます。
日本人は、いわゆる「有識者」たちよりはまともだと思っているからです。
しかし、日本人は世界的に見て、異常にマスコミへの信頼度が高い国民だそうですので、テレビ界での有識者のレベルに知的水準が落とされる恐れは十分にあります。
一番驚いたのは、イスラム国でも戦略発想する人がいるのかという、有名なキャスター役の人のいかにも相手をバカにしたコメントを聞いた時です。
さすがにその時には、フセイン政権時代の優秀な人材などがイスラム国には移っているという中東に詳しい人のコメントがありました。
今回の事件でのイスラム国の展開は、実に戦略的だったと思いますし、最初から首尾一貫していて、着実にシナリオ展開してきているように私には思えます。
また今回のヨルダンの対応も見事に感じます。
もしかしたらイスラム国とヨルダンは仕組んでいるのではないかとさえ思えます。
ただし、こうした思いも、私があんまり信頼できないでいるテレビから得た情報からの組み立てですので、まあ砂上の楼閣的推測でしかありません。
しかし、はっきりしていることはいくつかあります。
日本の政府や事件を報道する人たちの「目線の高さ」と「恫喝的な姿勢」です。
発言を聞いていると、相手を卑劣だとか残虐だとか、言語道断だとか、非難だけで、相手を理解しようという姿勢が感じられません。
それでは交渉どころか、コミュニケーションも成り立ちません。
政治的なパフォーマンスという側面もあるでしょうが、相手の立場を認めて、相手が聴く耳と大義を得られるような配慮は必要でしょう。
少なくとも、首相という役割を踏まえれば、「最低の品格」は維持すべきだと思います。
世界に向けては、日本人の代表なのですから。
それにくらべて国民の多くは「祈り」を基本にしています。
「一刻も早く解放しろ」よりも「無事帰ってきてほしい」の方が、たぶん相手の心には響くでしょう。
この事件から見えてくるのは、日本の政治と社会の実相のような気がします。
しかし、どうやら先が見えてきたようでほっとしています。
■「祈り」よりも「自分の生き方の見直し」(2015年1月30日)
昨日、イスラム国による日本人拘束事件も、先が見えてきたようでほっとしていると書きましたが、どうもそうでもないような感じに展開しています。
さらに事件の向こう側が見えてきて、ほっとするどころかやはりぞっとするべきかもしれません。
まだ私の推測は捨てきれずにいますが、いささか甘かったと反省もしています。
ところで、昨日の記事では「恫喝」よりも「祈り」だと書きました。
しかし、今日は「祈り」より「自己反省」だと言いたい気分が強まっています。
祈りを否定するつもりはありませんが、単に「祈る」だけではなく、こうした事件をひき起きしたことに対して、自らの生き方を一度問い直すべきだということです。
「I am Kenji」の運動が広がっています。
あるいは、後藤さんを支援するサイトもいろいろとできてきています。
私の友人も立ち上げていますし、私も一つだけあるサイトにサインしました。
しかし、やはりどこか違和感があって、心が動きません。
「I am Kenji」のカードをもった写真を何回も見ているうちに、その違和感はますます高まっています。
ましてや「私はシャルリー」の呼びかけの写真とつなげて考えると、むしろ否定的にさえなります。
少なくとも「私はシャルリーではない」の方が、私にはぴったりくるからです。
ジョージ・クルニーでさえ始めたというニュースには驚きました。
これを機に、私はクルーニーファンであることをやめました。
事の発端の一つは、シャルリーの恥ずべき行為だったと私は思っているからです。
すべての物語には始まりがあるのです。
日本の「I am Kenji」運動は西前さんの純粋な思いからスタートしているようです。
西前さんの純粋な思いには微塵の疑いもありません。
その言葉には心から共感できます。
しかし、その運動に参加している有名人の写真を見ているうちに、どうも違和感が出てきてしまうのです。
あなたたちの活動がイスラム国を生み出したのではないかとさえ思ってしますのです。
いや、イスラムの一部の人たちが、自爆テロまでして抗議している今の世界を作ってきたのは、有名人だけではありません。
私たちの生き方が、それを支えてきたのです。
そうであれば、私にも責任はある。
世界を変える出発点は、いつも自分にあります。
祈りは、そうした自己反省、自らの生き方の問い直し、そして生き方を変えていくことがあってこそ、力を持ちます。
祈りが意味を持つのは、祈る人自身の誠実さです。
誠実さは自らの生き方に裏付けられていなければいけません。
この事件を契機に、多くの人たちの生き方が変わっていけば、世界はいつか変わるでしょう。
しかし、祈る一方で、問題を相手に帰責しているようでは、イスラムの人たちや貧しい人たちをますます窮地に追い込んでいく世界になりかねません。
私は、祈りの中に、自らが生き方を変えられるようにという祈りも加えたいと思います。
たしかにイスラム国の取り組みには憤りを感じます。
しかし、彼らがなぜそういう行動をとるのか。
相手を責めるだけでは、前に進みません。
相変わらず好戦的で攻撃的な発言を繰り返している日本の政府にこそ、矛先はむけられるべきだろうと思います。
そして、こういう世界を支えている私自身の生き方にも批判の目を向けるべきだろうと思います。
祈りも大事ですが、まずは私の日常行動を変えなければいけません。
だれかに帰責しても、誰かを非難しても、事態は変わりません。
私に何ができるのか。
すぐには何も変化は出ないと思いますが、100年後には世界が変わっていることを念じながら、その方向に向けて、さらに一歩を踏み出したいと思います。
■イスラム国にどう立ち向かうか(2015年1月31日)
イスラム国による日本人拘束事件は硬直状況に陥ってしまっているようです。
この事件が起きた時に、思い出して、メアリー・カルドーの「新戦争論」を読み直したのですが、改めてカルドーの指摘が心身に響いてきました。
もしカルドーのいう「コスモポリタン・アプローチ」を取り入れていたら、9.11以降の世界の歴史は変わっていたように思います。
また今回の事件に対する対応も、別の道があったはずです。
日本政府は、相変わらずアメリカ依存の対応に終始しています。
カルドーは同書でこう書いています。
(「新しい戦争」においては、)恐怖と憎悪を蔓延させる戦略に対抗して、人々の「感情と理性」を育むという戦略が取られなければならない。
排除の政治に対して、包容の政治が行われなければならない。
日本政府の対応はどうでしょうか。
ちなみに、カルドーの言う「コスモポリタン・アプローチ」は、「アイデンティティ・ポリティクス」と対比されていますが、決して、アイデンティティを否定しているものではありません。
カルドーの説明によれば、「地球規模で多様なアイデンティティが存在することを尊び、複数の相重なるアイデンティティを受け容れるとともに、むしろ肯定的なものと考え、そして同時に、全ての人間存在の平等と、人類の尊厳を尊重するため主体的に取り組む」ポリティクスです。
カルドーはまたこうも書いています。
コスモポリタン・アプローチは、紛争当事者の政治目標を受け容れてしまってはどのような解決策も機能しないことから、コスモポリタンな原則に沿って機能するような代替的な政治に基づいてのみ、正統性の回復が可能になるという前提に立っている。
「イスラム国」という呼び方の是非がようやく議論されだしていますが、問題は「言葉」ではなく、その実体をどう捉えるかでしょう。
そして大切なのは、「代替的な政治」というビジョンと理念に基づいた対応ではないかと思います。
■後藤さんの行為を無駄にしないために思うこと(2015年2月1日)
イスラム国に拘束されていた後藤さんが殺害されたというニュースが流れています。
それもかなり信憑性は高いようです。
事実であるとすれば、実に悲しく、また恐ろしいことです。
終始、毅然としていた後藤さんの生き方に、深い敬意を感じます。
いまの報道が事実でないことを、いまもなお祈りたいと思います。
「非道で卑劣」な行為と相手を責めているだけでは、後藤さんは喜ばないでしょう。
語るのさえおぞましい事件ですが、後藤さんの生命を賭した行動から、私たちは学ばなければいけません。
どんなに「非道で卑劣」な行為に見えても、物事には必ず理由と意味があります。
昨日も書いたように、カルドーは「恐怖と憎悪を蔓延させる戦略に対抗して、人々の感情と理性を育むという戦略」が大切だと語っています。
私には、この言葉が深く心に響きます。
毅然としてテロに立ち向かうことは必要ですが、それは相手を非難し暴力的に抑え込むことではないはずです。
テロを引き起こす状況を克服することにこそ、毅然と立ち向かうことでなければいけません。
恐怖と憎悪の罠に陥ることだけは避けたいものです。
それでは、相手と同じ存在になってしまいかねません。
大切なのは、相手の立場と思いに誠実に耳を傾けることでしょう。
問われるべきは、「彼らはなぜこんな非道で卑劣な行動をしたのか」ではなく、「私たちはなぜ彼らにこんな行動をさせてしまったのか」であるべきでしょう。
そして、自らにもまた、相手にとっての「非道で卑劣な行為」はなかったかを問い質すべきです。相手を責めるだけでは、問題は解決できません。
まずは、自らが正すべきことはないかを考えることで、事態は変わっていくでしょう。
エジプトで安倍首相が発信した2億円支援をイスラム国は口実にしました。
これは戦闘に加担することではなく、人道支援だと日本は応じました。
しかし、そうした論理への異議申し立てこそが、イスラム国を支えている論理かもしれません。
たとえば、カルドーはすでに15年ほど前に「新戦争論」でこう書いています。
私は、実際の人道的介入は、「新しい戦争」の性質について、一種の近視眼的な認識に縛られてしまっていた点を強調したい。
人道的介入は戦争を阻止することに失敗したのみならず、実際にはさまざまなやり方で戦争が継続することさえ助けたかもしれない。
これだけ引用すると誤解されるかもしれませんが、カルドーは事例を含めてていねいに説明しています。
そして、新しい戦争においては、闘い合う敵同士にさえ、戦争経済面での多層的な依存関係が生まれることも示しています。
人道的介入という言葉で、思考停止してはなりません。
「介入」である以上、戦いの構造をきちんと踏まえておかなければいけません。
わかりやすい例は、アメリカ軍によるイスラム国への空爆です。
空爆はイスラム国を標的にしていますが、イスラム国支配下の住民を殺害してしまうことで、逆効果を生み出す危険性も持っています。
つまり「戦いの構造」と「戦いの目的」が変質していることを認識しなければいけません。
長くなってしまいました。
今回、私が学んだことのひとつは、世界から見たら、日本はもう「平和国家」の道を捨てつつあると思われているということです。
私たちの日本も、イスラム国化していくのかという恐怖です。
今回の事件は、そうした危機への警告のような気がします。
シリアには行けませんが、国会前のデモや都内の集会には、私でも行けるはずです。
シリアの子どもたちのところには行けませんが、私の周りに人たちにささやかなエールを送ることは私でもできます。
シリアに入る前の後藤さんの表情は、とても明るかったのが印象的です。
■平和日本60年の終焉(2015年2月3日)
今回のイスラム国日本人殺害事件は残念な結果になってしまいました。
すべては「後知恵」ですが、いまから考えるとこの結末は、1月20日に殺害予告が公にされた時にほぼ決まっていたのかもしれません。
中途半端な浅慮で、希望的見通しを持ったことを反省します。
時代は思っている以上に早く進んでいるようです。
改めてニーメラーの思いを噛みしめなければいけません。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2005/02/post_1.html
後藤さんが身をもって教えてくれたことも忘れてはいけません。
後藤さんの行動に関しては、さまざまな議論が起きていますが、いつものように関心が些末なところに行ってしまい、いつのまにか忘れられることが心配です。
しかし、この事件は、日本が外部からどう見られているかを示すものでもあります。
昨年の7月1日、安倍政権は集団的自衛権を閣議決定で認めました。
それは、公約にも掲げずに選挙で大勝した党首が、憲法を踏みにじった「事件」でした。
国会での審議も経ずに、この60年、守り続けられてきた「専守防衛」という国家の基本が崩され、戦争が再び国政の選択肢になったのです。
いまなお世界の常識である「近代国家思想」からすれば、それは「正常化」とも捉えることができます。
そもそも立法・行政・司法という三権分立の上にあるべき「統治」あるいは「軍事」という、近代国家の本質がこの60年の日本にはありませんでした。
しかし、それを「国家の欠陥」と考えるか、「新しい国家への挑戦」と考えるかは、人それぞれでしょう。
私は後者と考えていました。
日本国憲法はアメリカ政府によってつくられたかどうかの議論も盛んですが、統治なき近代国家の実験こそは、新しい世界への挑戦として大きな意味があると考えてきました。
それはまだ、アメリカという暴力管理下型の近代国家のサブシステムでしかなかったかもしれませんが、そこから得た知見は大きく、それを基本にした「新しい世界」構想が可能なのではないかとさえ期待していました。
昨年の7月1日の閣議決定は、それを否定して、歴史を引き戻すことになりました。
日米同盟の事実が、にわかに大きく感じられるようになってきました。
今回の事件が、こうしたことによって引き起こされたとは思いませんが、無縁でもないように思います。
イスラエル国家の樹立をテーマにした映画「栄光への脱出」の最後のシーンを思い出します。
この映画は明らかなプロバガンダ映画ですが、イスラエル国の成立と同時に、仲よく暮らしていたユダヤ人とアラブ人が殺し合いを始めます。
主人公アリ(ユダヤ人)の盟友だったアラブ人は、アリに別れを言って去った後、仲間に殺されてしまいます。
なぜかその時に感じた哀しい記憶を今回思い出しました。
先日紹介した、ボスニアの少年が言ったように、
政治こそが世界に毒を撒いているのかもしれません。
http://cws-osamu.cocolog-nifty.com/cws_private/2015/01/post-1bf3.html
そういう政治ではない政治の可能性を、日本の60年に期待していたのですが。
残念でなりません。
たぶんもう元には戻らないでしょう。
■国家を中心とした安全保障か、人間を中心とした安全保障か(2015年2月6日)
冷戦後の世界では、国家を中心とした安全保障から人間を中心とした安全保障へと視点が変わってきていると言われています。
しかしながら、今回のイスラム国日本人殺害事件に関する日本政府の考え方は、それとは反対の動きを示しています。
いま国会で行われているやりとりを聞いていて、それがよくわかります。
菅官房長官が2日午後の会見で、政府としては身代金を用意せず、犯人側と交渉するつもりはなかったこと(事後の発表ですから、これは「事実」です)を明らかにしたことに関して、孫崎さんがテレビで強く批判していましたが、2人が拘束されている状況の中でも相手と「交渉しなかった」ということは、私には犯人側の一方的な攻撃姿勢と同じように思います。
全く交渉しないということは、解決するつもりがないということと同じです。
つまり、日本政府は最初から2人を「コラテラル・ダメッジ」として考えていたということになりかねません。
日本政府は、国家を守るためには日本人を犠牲にするということです。
もしそうであれば、イスラム国と全く同じではないかとさえ思ってしまいます。
原発事故やその後の原発輸出の動きにも、そうした日本政府の安全保障観が感じられます。
冷戦後に、国家起点ではなく人間起点で安全保障を考えるという動きが出てきたのは、核兵器の出現と無縁ではありません。
抑止力を高めるために核兵器増強競争をしているうちに、核兵器そのものの存在が自らの存在さえも危険にしてきたのです。
つまり、脅威は他国の核兵器ではなく、核兵器そのものになったわけです。
それが結局は冷戦を終焉させる契機になったわけですが、同時に、国家(体制)維持のための安全保障ではなく、人間の生活安全を中心にした安全保障へと大きく流れを変えだすことになったように思います。
テロ行為もまた、核兵器と同じように、国家を超えだしています。
イスラム国は、国と言っていますが、これまでの国家概念には当てはまりません。
いまの構図は、国家を超えた「テロ活動」と社会の関係だと思いますが、9.11を契機に、ブッシュ政権はテロと国家の対立構図をつくってしまいました。
ですから、「イスラム国」などという、わけのわからない存在が生まれてきたのだろうと思います。
そして、最近の日本政府もまた、「イスラム国」と似てきているような気がします。
人間を中心とした安全保障は、むしろ日本がイニシアティブをとっていた時代もありました。
しかし、小泉政権から方向は変わりだしました。
それに関しては、ホームページで何回か書いたことがありますが、安倍政権(第1次も含めて)になって、まさに反転した感があります。
イスラム国問題は、福島とも深くつながっています。
そのことを見落としてはならないと思っています。
■人間ロボット社会(2015年2月8日)
新しい経済は、政治にも深くかかわってきますので、「新しい経済」シリーズと並行して、イスラム国事件から発したシリーズも並行して続けます。
イスラム国の兵士たちを見ていると(もしテレビ報道が正しいとしてですが)、個人の主体性は奪われていて、ロボット兵士のように感じます。
自爆テロリストにも2種類あるでしょうが、子どもまでも「自爆者」に仕上げるというやり方は、人間から主体的な思考を剥奪しているとしか思えません。
彼らは「大義」のために消費される存在であり、いわば「体制」のための部品です。
であれば、人間というよりも、ロボットに近い存在です。
そうした人間ではないロボットと戦うのですから、大変です。
しかし、ではロボット兵士を相手にしている有志連合や日本の人たちはどうでしょうか。
こちらもロボット化しつつあるのではないかという思いが拭い切れません。
報復合戦になってきている状況を見ていると、行動がかなり対称的だからです。
戦うことが目的化した社会は恐ろしい。
そういえば、オウム真理教による犯罪の実行者も、同じようでした。
彼らは自ら思考することなく、指示に従って行動したように思います。
どうもこうしたことは、今回に限ったことではなさそうです。
人間の本性に関わっているのかもしれません。
「民意のつくられかた」という本で、ジャーナリストの斎藤貴男さんは、集団的自衛権の閣議決定に関連して、「事態の重大さに照らせば、この国の世論の寛容さは異様なほどではあるまいか」と書いています。
寛容さには、思考による寛容さと思考停止による寛容さ(無関心さ)があるのかもしれません。
もしかしたら、私たちもまた、ロボット化の道を進んでいるのかもしれません。
そういえば、企業の経営管理者の研究会で、会社で働く人は「部品」のようになってしまったという話になったことがあります。
会社の部品、つまりロボットです。
まさに「マトリックス」の社会です。
これが私たちの目指す社会なのでしょうか。
そんなはずはないのですが。