■生き方を問い質す3つの話
私のブログ(CWS Private)に昨日と今日、書いた話のポイントの再録です。

●貧しくもなく、富めることもなく、ただ平安に(2013年10月26日)
今日はフォワードカフェという集まりをやりました。
参加者の一人が、今月40万円が必要になって、そのことをクリスチャンの奥さんに話したそうです。
奥さんがどうしても必要なのかと言うので、どうしても必要だと答えると、奥さんはそれでは私も祈るのであなたも祈りなさいと言ったそうです。
そこで彼は「40万円が手に入りますように」と祈りました。
そうしたら奥さんが、そうではなく、「貧しくならないように、富めるようにもならないように、ただ安泰に暮らせるように」と祈りなさいと言ったそうです。
残念ながら、まだ40万円は手に入っていないそうですが、とても共感できる話です。

後で、この話は「箴言30章」に出てくる話だと教えてもらいました。
ネットで調べたら、こう書いてありました。
貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。

●ヘレヘレじいさん(2013年10月27日)
今朝のテレビ「こころの時代」で、「幸せの形と向き合う」というのを再放送していました。
長年、ブータンの研究に取り組んでいる宗教人類学者で僧侶の本林靖久さんが、お話の中で、ブータンの民話「ヘレヘレじいさん」を紹介していました。

あるおじいさんが、畑を耕していて、大きなトルコ石を発見しました。
「これを売ればお金持ちだ」と思ったおじいさんは、大喜びで市場に向かいます。
ところが、その途中で次々と村人に出会い、そこで交換を重ねていきます。
まずトルコ石を馬と交換し、その馬を年老いた牛と、つづいて羊、鶏と交換してしまうのです。
次に出会ったのが、楽しそうな歌を歌っている村人です。
そして、その歌を教わったお礼に鶏を渡してしまいます。
しかもそれで終わりません。
おじいさんは、その歌を歌いながら楽しく帰路につくのですが、途中で転んでしまい、その歌を忘れてしまいます。
結局、村に戻ってきた時には何もなかった。
しかし、その後も、貧しくとも楽しく暮らしたというお話です。

「わらしべ長者」の話とは正反対の話です。
今の私たちの価値観からすると、ヘレヘレじいさんは損をしたことになりますが、そうではないのです。
モノやお金ではなく、他者を喜ばすことこそが喜びであり、人と人とのつながりの中で生きていくことが何よりも幸せであるということを教えてくれているのです。
ヘレヘレじいさんは、豊かで幸せな人生というものを知っていたのです。

●「望む」「できる」「知る」(2013年10月27日)
バルザックの「人間喜劇」の一編に、『あら皮』という小説があります。
その作品のことを思い出しました。

野心に燃えた若者が、骨董屋の老人から、なんでも望みをかなえてくれるという「あら皮」(なめしていない皮)をもらいます。
その時、その老人はこう話すのです。

ひとつ手短に、人生の大きな秘密というものを教えて進ぜよう。
人間というものは、本能でやらかすふたつの行為によって命の源をからし、身を弱らしてゆくものだ。この死の原因となるふたつのもののさまざまな姿は、みんな「望む」と「できる」というふたつの動詞によって示されている。
この人間の行為の両端のあいだには、賢い人だけがつかむことのできる、もうひとつの言葉がある。このわしも、そのおかげで幸せになれたし、長命もできたというわけだ。
「望む」という気持はわれわれを焼き、「できる」という気持はわれわれを滅ぼす。ところが「知る」というやつがあって、それがわしらの弱い肉体を常住不断にやすらかにしてくれる。

私たちは、多くの場合、「知る」とついつい「望む」「できる」へと行動を起こしてしまいます。
しかし、「知る」先にあるのは「望む」「できる」だけではないというのです。
では何があるのか。
みなさん、何だと思われますか。