オメラスとヘイルシャムの話
CWS private に書いたものの再掲です。

■その1:今の社会はまさにオメラス(2014年6月10日)
いま放映されている「MOZU」というテレビドラマのなかで、「オメラス」の話が登場しています。
それが、そのドラマの一つのモチーフになっているようです。
「オメラス」は、数年前に、マイケル・サンデルの白熱教室でも話題になったことがあります。
こんな話です。

オメラスは幸福と祝祭の美しい町です。
しかし、オメラスにある地下室に一人の子供が閉じ込められています。
その子は知能が低く、栄養失調で、世話をする者もおらず、惨めな生活を送っています。
オメラスの住民たちは、みんなそのことを知っています。
そして、もしその子を不潔な地下から救い出したら、その瞬間にオメラスの町の繁栄、美しさ、喜びはすべて色あせ、消えてなくなる、ということも知っています。

この話を紹介して、サンデルは、あなたならどうするかと問います。
あなたならどうするでしょうか。
その子を救い出すでしょうか。
これは、決して私たちの生活に無縁の話ではなく、むしろ私たちの生活そのものを象徴している話です。
「コラテラル・ダメッジ」の問題にもつながる、政治の話でもあります。
ちなみに、この話は、『ゲド戦記』の原作者 アーシュラ・ル=グウィンが1975年に出版した短編小説集『風の十二方位』の中にある『オメラスから歩み去る人々』に出てきます。
私自身、オメラスから去ることができるかどうか自信はもてません。
だから思い出したくない話です。
しかも、その子どもは、時々こう訴えかけるというのです。
「おとなしくするから、出してちょうだい。おとなしくするから!」。
耳をふさぎたくなります。

先日、「自発的隷従論」を読みました。
西谷修さんの解説が掲載されていますが、そこにカズオ・イシグロの小説『わたしを離さないで』が言及されています。
これに関しては、先日、挽歌編で書きました。
あまりに哀しすぎて、とても読むことができないだろうと思っていました。
ところが「MOZU」で「オメラス」まで出てきてしまったので、気になりだしました。
それに今まさに私が住んでいるこの社会は「オメラス」そのものだという感じが日増しに強くなってきています。
それで思い切って、昨日、『わたしを離さないで』を読んでしまったのです。
やはり読まなければよかったと思いました。
これほど哀しい小説を読んだのははじめてです。
筋を知ってしまっているために、最初から胸が苦しく、辛かったのですが、ナイーブなオプティミストと言われるだけあって、カズオ・イシグロの文章は、深い哀しさの中にも、どこか人間味のあるあたたかさを感じさせ、終わりまで一気に読み終えることができました。
しかし、読後の疲労感は、半端ではありませんでした。
気を紛らわせようと思って、テレビをつけたら、子どもを放置して死なせた父親のニュースが報道されていました。
なんと父親が子どもを遺棄した時に、聞いた言葉が「パパ」。
「オメラス」そのものではないか!
昨夜は眠れない夜を過ごしました。

あまり自信はないのですが、オメラスとヘイルシャムの話を少し書こうと思います。
ヘイルシャムは、『わたしを離さないで』の第1部の舞台です。

■その2:私たちはヘイルシャムで育ったクローンではないか(2014年6月10日)
オメラスの話は前回紹介しましたので、ヘイルシャムの紹介をします。
カズオ・イシグロはイギリスで活動している作家ですが、両親は日本人です。
10年近く前に出版された『わたしを離さないで』は、移植用臓器を供給するために育てられたクローンたちが、自らの運命の枠内で定められた短い生をまっとうしてゆくという物語です。
西谷さんが引用しているように、彼らはまさに「隷従」の生を生きています。
挽歌編では一度、引用していますが、西谷さんのクールな文章をもう一度引用させてもらいます。

彼らは成長するとまず「介護人」にそしてやがては「提供者」となり、何回かの「提供」を経てそれぞれの生を「まっとう」してゆく。そこにはこの理不尽な運命に対する抗議や抵抗はほとんどなく、それが自分たちの自明の生の形であるとでもいうかのように、彼らは従容として枠づけられた階梯をたどり、成長しそして短い生を終えてゆく。彼らは、自分たちの生がいわば他者たちの道具の地位に限定されており、その枠内でしか生きられないという条件をそのまま受け入れ、その限界のこちら側に留まって生を終える。その気があれば越えられるとも思われるこの不条理で理不尽な限界が、魔法の結界ででもあるかのように、彼らはそれを越え出ようとはしない。

恐ろしいほど、哀しい話であることがわかってもらえるでしょう。

このクローンが子ども時代を過ごす場所がヘイルシャムです。
ヘイルシャムには、さまざまな意味が含意されているようです。
「カズオ・イシグロ」の著者である平井杏子さんによれば、ヘイルシャムとは、〈健康であれ〉という意味のヘイルと〈まがい物〉〈見せかけ〉という意味のシャムとをつなげた言葉です。
さらに平井さんは、英国における原子力ステーション、ヒーシャムを連想させるとも書いています。

クローン人間を作り出す話は、手塚治虫の「火の鳥」を初め、たくさんあります。
映画もたくさんあって、最近では映画「オブリビオン」があります。
いずれも哀しい話が多いです。
そもそも遺伝子操作やクローンは、哀しい話なのです。

もしクローンが、移植用臓器用につくられるのであれば、それはあくまでも「物体」であって、魂をもったら、臓器を取り出すことができなくなりかねません。
SF映画では、溶液の中に培養した生体物として描かれることも多いですが、『わたしを離さないで』では、効率性を考えて、臓器を別々に培養するのではなく、「ヒト」として育て、必要に応じて、臓器を摘出するのです。
そうして生まれた「ヒト」は魂、知性、感性をもつものかどうか。
クローン人間は魂を持つか、それが『わたしを離さないで』のテーマです。

そうして生み出されるクローン人間は、いったい何なのか。
気が遠くなるような話です。
私が遺伝子工学に不気味さを感ずる事の、まさに本質がここにあります。
原子力科学と遺伝子科学は、私には全く受容できない科学です。

それはともかく、「劣悪な環境のもとに飼育されている移植臓器生産用クローン」への流れに反発を持った人たちが、クローンの情操がどこまで育ちうるかということで、子どもたちの創造力の育成に取り組むためにつくったのが、ヘイルシャムです。
そこで育てられた子どもたちの「人生」が、本書で描かれています。
彼らは、魂の核と言ってもいい「愛」にたどりつきます。
それが愛かどうかは、私にはよくわかりませんが、少なくともこの作品に登場する、クローンではない人たちよりは純粋な愛のような気もします。

まだ考えが整理できていませんが、現代の私たちの生活は、やはりどこかで何か間違っているような気がしてなりません。
なぜそこまでして生きなければいけないのか。
もっと自然に生きることに素直でありたいと思います。

■その3:自らの生き方につながらない社会活動はありえません(2014年6月10日)
ヘイルシャムは、オメラスの町の地下室といってもいいでしょう。
ヘイルシャムの子どもたちは、オメラスの場合と違って、一見、大切に育てられていますが、それこそが最大の悪事かもしれません。
ことの本質を見えなくしてしまうからです。
小説では、ヘイルシャムの秘密が最後に、その活動の推進者だったエミリー先生によって明らかになるのですが、その時のエミリー先生の態度はきわめて他人事なのです。
読んでもらうとわかるのですが、彼らの活動はクローンの人生への共感からではなく、自らの気休めのためとしか思えません。
著者は、それをあまりにも赤裸々に示唆しています。
著者の、同時代人への怒りを感じます。

私はこの数年、いわゆるケアの世界にささやかですが、関わっています。
そこで一番やりきれないのは、支援側にいる人たちの人間観です。
もちろんすべてがそうだとはいえませんが、どこかに「支援してやっている」という雰囲気を感じてしまうのです。
それが悪いとは言えないでしょうが、私にはやりきれません。

この小説の中で、ヘイルシャムを構想し、実践したエミリー先生は、真実を知りたいと訪ねてきた子どもたちにこう語るのです。

わたしたちがしてあげられたことも考えてください。振り返ってごらんなさい。あなた方はいい人生を送ってきました。教育も受けました。もちろん、もっとしてあげられなかったことに心残りはありますけれど、これだけは忘れないで。

私が最も嫌いな発想です。
大切なのは、みんな同じ仲間なのだと思うことです。
自らの出来ないことをこそ、悩むべきです。
それがなくて、相手を支援しようなどと思っては、どうしても観察者的になる。
それでは、一番大切なことが抜けてしまいます。
関わる問題が、自殺であろうと認知症であろうと障碍問題であろうと、それが自らの人生の問題であると思えるかどうか、です。
それがなければ、オメラスの地下の子どもに同情し、彼に衣服やパンを贈ろうとするのと同じです。
つまりは、オメラスの幸せを享受しつづけようというわけです。
自らの生き方につながらない社会活動はありえないのです。

■その4:宮沢賢治の不幸(2014年6月11日)
オメラスの人たちが幸せでなかったことを知っていたのは、宮沢賢治でした。
賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と、「農民芸術概論綱要」に書いています。
地下室の子どもの犠牲の上に、自らの幸せはないとわかっていたのです。
そして彼はそれに基づいて生きました。

ヘイルシャイムのエミリー先生もまた、それに気づきました。
しかし、彼女は子どもたちを自分の仲間とは考えませんでした。
そのために構想は挫折し、彼女もまた自らの世界に引きこもりました。
子どもたちは同情の対象でしかなくなってしまったのです。
つまりは自分とは違う、地下室の世界をつくりあげたのです。

しかし、誰かの犠牲の上に、幸せな国は創れるでしょうか。
これは、おそらく「問題の立て方」が間違っています。
「問題の立て方」によって、世界はまったくちがったものになることは、このブログでも何回か書いてきました。
どんな難問も、問題の立て方ひとつで解けることもありますし、ことの本質を隠蔽することもできます。
ヘイルシャムをつくれば、問題が解決するわけではありません。

宮沢賢治の考えによれば、誰もが犠牲にならないことが「幸せになること」なのです。
コラテラルダメッジなどあってはなりません。
生贄を求める宗教と苦楽を共にする宗教との違いでもあります。
ここでも日本古来の宗教観と現代世界の宗教観が異質であることがわかります。

日本人は無宗教という言葉ほど、私の嫌いな言葉はありません。
熊野が世界遺産になった頃に出版された「熊野 神と仏」(原書房)に、熊野本宮神社の九鬼家隆さんと金峯山寺の田中利典さんと宗教人類学者の植島啓司さんの鼎談が載っていますが、そこで熊野の意味、宗教の意味がわかりやすく話されています。
田中さんは、「私は無宗教です」というのは「私は倫理観をもっていない恐ろしい人間です」というのと同じことになるとまで言っています。
前にも書きましたが、私もそう思っています。

話がそれてしまいました、地下室の子どもを仲間だと思えるかどうか。
それが大切なことです。
それがないといま裁判になっている韓国のセウォル号の船長と、結局は同じになってしまいます。

話が次から次へと拡散しますが、そこにこそ問題の本質があります。
オメラスもヘイルシャムも、まさに現在の社会と私たちの生き方を象徴している話なのです。
大切なことは、それに気づくかどうかだろうと思います。

■その5:子どもたちに見えていること(2014年6月11日)
宮沢賢治とは違う意味で、ことの本質を感じていたのは、トミーです。
トミーは、ヘイルシャムで育てられた「できのわるい」子どものひとりです。
癇癪を起こしては問題ばかり起こしていました。
主人公のキャシーと、エミリー先生の話を訊きに行くのですが、エミリー先生がいなくなった後、2人はこんな会話をします。

「ヘールシャムで、あなたがああいうふうに癇癪を起こしたでしょ? 当時は、なんで、と思ってた。どうしてあんなふうになるのかわからなくて。でもね、いまふと思ったの。ほんの思いつきだけど…。あの頃、あなたがあんなに猛り狂ったのは、ひょっとして、心の奥底でもう知ってたんじゃないかと思って…」
  トミ−はしばらく考えていて、首を横に振りました。「違うぜ、キャス。違うな。おれがばかだってだけの話だ。昔からそうさ」でも、しばらくしてちょっと笑い、「だが、面白い考えだ」と言いました。「もしかしたら、そうかも。そうか、心のどこかで、おれはもう知ってたんだ。君らの誰も知らなかったことをな」

小説の登場人物のことを詮索するのもおかしな話ですが、キャシーの考えはとても納得できます。
トミーは知っていた、いや、感じていたのです。

最近、子どもたちの世界がおかしくなっているような気がしますが、もしかしたらそれは子どもたちが地下室の子どもの存在を感じているからではないかという気がずっとしています。
あるいは、ヘイルシャムの外の世界を感じているといってもいいかもしれません。
そう考えると、ここでも「問題の立て方」がまったく違ってくるはずです。

人の心は、時空間を超えてつながっています。
言語や文字や知識を通して、人はつながっているわけではありません。
地下室の子どもの声は、聞えているのです。
しかし、聞きたくないために聞こえないのかもしれません。
新しい知識を学ぶことは、ある意味では現有する知識を捨てることでもあります。
知ることは、実は知らないことを知ることなのですが、いまの教育観や学校制度はそうなっていないように思います。
疑うための知識ではなく、疑うことをやめることの知識が横行しています。
学校で学ばなかったことはすべて切り捨てられます。
疑うことのない人間を創りあげていくのが、もし教育であるとすれば、教育ではなく(隷従への)飼育というべきでしょう。
知識は力にもなりますが、力を削ぐこともできるのです。

トミーの癇癪に話を戻します。
大きな変動の前には予兆があります。
昨今の子どもたちの世界に、何かの予兆が含まれているのではないか。
そんな気がしてなりません。

いささかテーマから逸脱しすぎたかもしれませんが、子どもたちの世界は、時空間を超えているような気がします。
私自身がそうだったような気がしますので。

■その6:先が見えなくとも、進まなければいけない時があります(2014年6月12日)
オメラスの話に戻ります。
「オメラスから歩み去る人々」の題名にある人たちはどういう人でしょうか。

その短編の最後はこうです。

彼らはオメラスを後にし、暗闇の中へと歩みつづけ、そして2度と帰ってこない。彼らがおもむく土地は、私たちの大半にとって、幸福の都よりもなお想像にかたい土地だ。私にはそれを描写することさえできない。それが存在しないことさえありうる。しかし、彼らはみずからの行先を心得ているらしいのだ。彼ら……オメラスから歩み去る人びとは。

先が見えなくとも、進まなければいけない時がある。

若い頃読んだアーサー・C・クラークの「都市と星」を思い出しました。
アーサー・C・クラークは、話題になった映画『2001年宇宙の旅』の原作者です。
『都市と星』はなんと10億年後の地球の話ですが、そこに建設された都市ダイアスパーは完璧な都市と言われるほどの理想郷で、住民たちはオメラスのように、何不自由なく幸せに包まれて暮らしていました。
しかし、ひとりの若者がその理想郷から外部への旅に出かけるという話です。
実は、「外部に出たい」と思うと言うことは、「幸せではない」ということなのですが、ほとんどの人は先が見えない道に歩みだすことよりも、現状にとどまることを望みます。
その結果、現状を幸せだと思い込むことになるわけです。
確かに外部はこれまでの安住の世界とは違います。
踏み出すことによって失うことも多い。
得るものも多いでしょうが、それは確信が持てません。
そうやって、みんな現状に甘んじてしまう。

これは現在の原発依存社会そのものです。
しかし、先が見えなくとも、進まなければいけない時がある。

オメラスの幸せもダイアスパーの幸せも、実は「小さな幸せ」でしかありません。
「幸せ」とは比較概念ですから、「大きな幸せ」から見れば、「小さな幸せ」は「不幸」だともいえます。
念のために言えば、どちらがいいかは人それぞれです。
餌にこと欠かない動物園で暮らすのも幸せならば、餓死の危険のある野生の生き方も幸せです。

私は25年前に会社を辞めました。
それで幸せになったかどうか。
数年前までは幸せだったと確信していましたが、最近は迷いがあります。
しかし、「迷い」こそが、幸せの本質なのかもしれません。
ちょうど、知れば知るほど知らないことを知るのと同じように。

■その7:幸せのトリックルダウンなどありえません(2014年6月12日)
カズオ・イシグロは、「わたしを離さないで」に最初に取り組みだしてから、いろいろと題材を変えて書き直したそうです。
最初は『原発』をテーマにしたそうです。
考えてみると、原発社会はまさにオメラスそのものです。

今朝の朝日新聞に、福島原発事故時に内閣官房審議官(広報担当)だった元TBSアナウンサーの下村健一さんの当時の記録ノートの内容が紹介されています。
相変わらず真相は藪の中ですが、こうして少しずつ見えてくる事実もあります。
見えてくるたびに、私はいつも「なぜ少しずつなのだろうか」と思います。
そして、みんな本気で事実を見たくないのだろうな、と思ってしまいます。
人は見たくないものは、できるだけ見ないようにしてしまうものです。

私が「反原発」になったのは、35年ほど前に東海村の原発を見せてもらってからです。
そこで「季節労働者」の作業員が被曝しながら作業をしている話を聞きました。
それを知って以来、原発反対ですが、にもかかわらず原発でつくられた電気に依存する生活はつづけています。
もちろん節電はしていますが、東電の電力にわが家の暮らしは依存しています。
結局は、オメラスの人たちと同じわけです。

エミリー先生は、キャシーやトミーに向かってこう言います。

癌は治るものと知ってしまった人に、どうやって忘れろと言えます? 不治の病だった時代に戻ってくださいと言えます? そう、逆戻りはありえないのです。
あなた方の存在を知って少しは気がとがめても、それより自分の子供が、配偶者が、親が、友人が、癌や運動ニューロン病や心臓病で死なないことのほうが大事なのです。それで、長い間、あなた方は日陰での生存を余儀なくされました。

一度、知ってしまった利便性は捨てられなくなります。
皮肉なことに、他者の利便性をもたらすために自らは一層惨めになろうとも、いつかその利便性が自分のものにもなるという勘違いも横行します。
なぜか多くの人は、幸せのトリックルダウンを考えてしまうのです。
幸せを得ている人とのつながりは、実際にはありえないのですが、あると思う一方で、地下室の子どもとのつながりは、実際にはつながっているのに、それが見えなくなります。
エミリー先生もこう言っています。

世間はなんとかあなた方のことを考えまいとしました。
どうしても考えざるをえないときは、自分たちとは違うのだと思い込もうとしました。
完全な人間ではない、だから問題にしなくていい。

想像とは、往々にして、ご都合主義的なのです。

■その8:見えてくる未来には戦慄を感じます(2014年6月13日)
STAP細胞論文事件はまだごたごたと尾をひいています。
報道によれば、小保方さん側に不正があったとされていますが、虚実はまさに藪の中です。
そもそも遺伝子工学は、私にはおぞましい世界です。
生命を物質と同じように対象化する発想にはどうも馴染めないのです。

生命は「考える存在」です。
考えているのは脳だけではありません。
細胞一つひとつが考えている。
クローンによって生み出されるものも例外ではないでしょう。
もし移植臓器が不整合を起こすことがあるとしたら、それは機械的なパーツではないからです。
つまり、ヘイルシャムで実験するまでもなく、細胞も臓器も「感情」や「意思」を持っているのです。

その「感情」や「意思」は、しかし時間によって進化します。
人間は科学を発展させたが、自らの精神はあまり変わっていないとよくいわれますが、そんなことはないと思います。
人の感情や精神は、大きく変わっているように思います。
人間に「意識」が芽生えたのは3500年ほど前という説に私はとても納得できますし、この100年の日本の歴史を見ても、「感情」や「意思」は明らかに「進化」しています。
人間観や生命観は大きく変わっています。

たとえば、500年ほど前には、南北アメリカ大陸のネイティブたちは、ヨーロッパ人たちにとっては同じ人間とは思われていませんでした。
だからこそ、バッファローと同じような殺戮が行われたわけです。
そしてそれから300年以上にわたって、アフリカ大陸から1000万人のアフリカ黒人が貿易の対象にされ、商品として輸入されたのです。
キリスト教徒の国であるにもかかわらず、です。

さらに、100年ほど前にコンゴで行われたおぞましい事件も思い出します。
ジョセフ・コンラッドが『闇の奥』で描いていますが、黒人は人間の形をしているが、自分たちとは違う存在だという考えが、燻製にした手首の山ができるほどの凄惨な現実を生み出したのです。
そして、そのことが。コンゴ自由国の所有者であったベルギー国王を富ませたのです。

しかし、いまや「人間の形をした別の人間」という概念は否定されました。
であれば、どうするか。
これ以上考える勇気は、いまの私にはありませんが、見えてくる未来には戦慄を感じます。

■その9:もう考えるのがいやになってしまいました(2014年6月13日)
オメラスの話もヘイルシャムの話も、いうまでもなく、幸せとは他者の不幸の上に成り立つものであることを示唆しています。
その意味では、「幸せ」という概念を持った途端に、「不幸」への不安が発生するというわけです。
概念を持つということは、そういうことですから、仕方がありません。
しかし、そのことに大きな「落し穴」があるような気もします。

私は何か集まりをやる時に、いつも関係者にいうことがあります。
それはどんな結果になっても、結果がベストなのだということです。
それでは「進歩」がないではないかと言われそうですが、体験を重ねることが進歩なのだろうと思います。
もしかしたら、「生きる」ということもそうなのかもしれません。
「生きること」が、そのまま「幸せ」である時代もあったはずですが、いまの私も、残念ながらそうは思えなくなってしまっています。
しかし、「不幸な人生」など、本来、あるはずがありません。

オメラスとヘイルシャムが問いかけてくることは、際限なく、深まります。
またいつか考えたいと思います。
今日は、それどころではない大きな事件がまた起きてしまいました。
こうやって、オメラスとヘイルシャムも忘れられていくのでしょう。
どこかで流れが変わるとは思いますが。

■その10:10羽のニワトリ(2014年7月4日)
先月、オメラスとヘイルシャムに関するシリーズ記事を書きましたが、それを思わせる「10羽のニワトリ」の話を知りました。
http://homepage2.nifty.com/CWS/heilsham.htm
私が大学を卒業した年に、茨城県の千代田村に、脳性麻痺者自身の共同体「マハラバ村コロニー」をつくった大仏空さんの生涯を記録した「脳性マヒ者と生きる」のなかで、大仏さんが仲間に語っている話です。

10羽のニワトリがいる。9羽の調和をよりよく保つためにはどれか1羽を犠牲にしなければならない。その1羽が餌でもとろうものなら他の9羽が一斉に寄ってたかっていじめる。むろんたまごなど産めるわけがない。そんなニワトリでも「つぶして」しまうわけにはいかなかった。その1羽をつぶしてしまえば他の9羽は円満にいくかというとそうはいかない。9羽のうちからまた新たなスケープゴートが生まれるからだ。

20対80の法則というのがあります。
たとえば、アリの集団では2割がとても勤勉だそうですが、その働き者の2割のアリだけで集団をつくると、8割のアリが怠け者になるのだそうです。
逆に怠け者の8割のアリだけの集団にすると、その2割が勤勉になるのだそうです。

生命体の集団には、そうした構造があるようですが、それは個体と全体とが完全には切り離されてはいないということを示唆しています。
10羽のニワトリの話も、そうした構造の一つと考えられます。
1羽を犠牲にしても、また次の1羽が出てしまう。
そして最後には、「誰もいなくなってしまう」わけです。

こうした問題を解くのは難しいように思えます。
事実、オメラスを壊さずに、地下室の少年を救うことはできません。
しかし、実はそう思うところにこそ、大きな落し穴があります。
それは、構造を規定する軸が「一つ」だということです。
価値軸を多様におけば、構造はダイナミックに動き出します。
地下室が高層ビルの最上階になるかもしれません。
金銭軸での大富豪が、友人軸での最貧困者になるかもしれません。
犠牲になる1羽のニワトリが、実は状況主義的に変動するかもしれません。
つまり問題は、現実を固定しようとする私たちの発想にあるのです。
地下室は一つではなく、犠牲になるニワトリも特定される1羽ではないのです。

しかし、そうしたダイナミックな社会に生きるには、かなり大きなエネルギーが必要です。
だから多くの人は、特定の1羽を決めてしまうのでしょう。
学校という仕組みが、子どもたちにそれを教え込んでいるとしたら、恐ろしい話です。
そろそろ学校制度は根本から見直されるべき時期に来ています。
しかし、どうもその反対の動きがいよいよまた強まりそうです。