いまなぜ持続可能な循環型地域なのか
これからの自治体のあり方と持続可能な循環型システムの必要性
東久留米市職員組合報告書「農とゴミから考えるまちづくり」から抜粋

 

 歴史の軸が動こうとしている。しかも、それは私たちの生活基盤である地域から起きそうな気配がある。"Think globally, act locally"(地球レベルで考え、それぞれの地域で実践的に行動する)という言葉がよく使われるようになってきたが、地域の視点が大切になってきているのである。それはとりもなおさず、私たち一人ひとりの生き方への問題提起につながっている。地域は行政が創っているわけではない。歴史も「誰か」が創っているわけではない。その地域に、その時代に、生活する私たち一人ひとりが創りだしている。もし、新しい世紀が新しい時代の始まりになるとすれば、その担い手は私たち一人ひとりである。

◯産業の時代から環境の時代

 20世紀は「産業の時代」だった。産業の発展により私たちの生活は豊かになり、地域環境も整備され、幸せな未来が約束された、かに見えた。しかし、その期待は、残念ながら長くは続かなかった。もうひとつの環境問題が、私たちの生活環境に陰を落としだしたのである。いわゆる「地域環境問題」である。

  今から40年近く前に、アメリカの自然科学者レイチェル・カーソンは行き過ぎた産業化の行く末に「沈黙の春」を予言した。それは、春になっても草木は芽吹かず、鳥たちも歌わない自然の死の警告だった。その警告にもかかわらず、私たちはさらに産業化を突き進め、それに合わせた生活様式を身につけてきた。そして今、「沈黙の春」の予言は現実のものになりつつある。生活を豊かにするための、「産業化」や「開発」が、逆に私たちの生活を脅かしだしたのである。なぜそうなってしまったのだろうか。

 これまでの産業化の考えでは、自然は私たちが利用すべき未活用資源だった。自然を加工した人工的な製品の多寡が、私たちの豊かさの指標だった。私たちは、資源とエネルギーを自然から取り込み、産業活動の過程で出てくる不要物資を自然に廃棄してきた。生活を豊かにしてくれる製品もまた、用済み後は自然に廃棄されていった。つまり、近代の産業システムは、自然から廃棄物への一方的な流れの「使い捨て構造」であり、それに支えられた産業社会とは、「地球環境を消費する社会」だったのである。

 いま、その路線が限界にぶつかっている。無尽蔵と思われた自然環境が底を見せだし、これ以上の廃棄物を消化する能力がないことが明白になってきた。問題は石油が枯渇したことなのではない。自然そのものが枯渇してきたのである。これまでの産業システムを続けていては、社会そのものが持続出来なくなっていく。「地球環境の消費」に基づいた私たちの生き方を変えていかなければならない。21世紀は「環境の時代」と言われる理由がそこにある。

◯地方分権から地域主権へ

 歴史の軸の変化は、もうひとつの視点からも顕在化しつつある。

 産業化は、社会そのものの「人工化」を引き起こした。大量生産・大量販売のために、世界は均質化され、地域社会というよりも市場として変質させられてきた。効率重視の中で、地域の個性はむしろ否定され、中央集権による規模の経済が行政分野においても優先されたと言っていい。やや情緒的な言い方になるが、それまでの「土に根ざした地域づくり」が、「土から解放された無機質な地域づくり」へと変質したのである。

  たしかに、それによって私たちの地域が豊かになったことは否定できない。しかし、反面、地域から表情がなくなり、全国共通の施策が逆に個々の地域の生活を阻害するようなことも起こってきた。そればかりか、住民たちから「自分たちのまち」という意識を奪い、それが住民の行政依存を増進させたように思われる。そうしたことが生み出した歪みは、行政そのものの変革をひきおこした。地方分権への反転である。

  地方分権は自治体行政に大きな変化を起こしつつある。しかし、「地方分権」が中央の権限の一部を地方に委譲していくだけのことであれば、これまでの枠組みの延長でしかない。それでは事態は変わらない。いま、求められているのは、発想の視点を中央からそれぞれの地域へと移していくことであり、地域主権というべきであろう。当然のことながら、それは地域住民が地域づくりの主役になっていくということである。単なる行政制度の変化ではなく、思想の変化、歴史の軸の変化といっていいほどの大きな変化である。そろそろ国家全体のために地域を消費する時代を終わりにしなければならない。それは中央への依存をやめて、それぞれの地域がしっかりした自立性と責任を持つということでもある。ここでも、私たち一人ひとりの生き方の見直しが迫られている。

 産業から環境へ、中央発想から地域発想へ。この二つは無関係ではない。そうしたことの背景には、社会そのものの枠組みがもはやこれまでの発想では立ち行かなくなっているという事実がある。個々の問題に対症療法的に取り組むのではなく、発想の枠組みを変えていかなければならない。新しい発想が求められているのである。

◯持続可能な社会への挑戦

 産業の時代から環境の時代への移行は、産業を否定することではない。産業と環境をどう調和させていくかということである。1987年、国連に設置された「環境と開発に関する世界委員会」(ブルントラント委員会)は、「持続可能な発展」(Sustainable development) の概念に基づき、人類が存続しうる環境を維持していくためには、社会や経済のあり方を変えていかなければならないことを訴えた。以来、この言葉は時代の理念になってきており、産業界にも大きな影響を与えている。

 前述したとおり、これまでの産業システムは自然から廃棄物へ一方向に流れる「使い捨て型」だった。資源を枯渇させ廃棄物を蓄積するのは、その当然の結果である。しかし、その基盤にある自然環境は、さまざまな要素が相互依存しあいながら、物質とエネルギーを循環させている「循環型」である。したがって、自然の世界には「廃棄物」という概念はない。ある生物の排出物は別の生物にとっての食料となるような見事な循環のシステムが構築されている。まさに持続可能なシステムといっていい。  その循環システムから一方的に資源を取り込み、循環システムにのらないような形に変質させて排出していくという近代産業システムが、その循環システムに悪さをしていることが、近年の環境問題の本質なのである。経済は発展しても、環境はやせおとろえていき、結局は経済そのものを立ち行かなくしかねない。そうした認識から、産業システムを循環型に変えていこうという動きが強まっている。具体的にはリサイクル産業を整備するとともに、資源生産性を高めていく(つまり廃棄物をできるだけ少なくする)という動きである。省エネ、あるいは容器や家電製品などのリサイクルなどに関する法制整備も進められている。

 リサイクル産業の育成や環境行政の充実はもちろん望ましいことではあるが、落とし穴がないわけではない。たとえばリサイクル産業を考えてみよう。リサイクル事業に取り組む企業にとっては、当然のことながら自らの事業拡大のために、リサイクル資源である廃棄物の増大を望むことになる。また、リサイクル企業が発達することにより、企業は不要物を気楽に外部に排出できることになり、資源生産性を高めようという意識が後退することも考えられる。こうして、廃棄物を解消するはずの企業が、逆に廃棄物を増やす役割を果たすという逆説が成立する。このことは環境行政にもあてはまる面がある。

 社会を持続可能なものにしていくためには、これまでの産業システム(動脈産業)にただリサイクルの仕組み(静脈産業)を付け加えればいいわけではない。産業そのものの考え方を見直していく必要がある。

○持続可能な発展に向けての農業の再評価

 人間の生産の営みとしての産業は、常に環境の消費だったわけではない。たとえば、日本古来の農業は「土をつくる」ことを目指していた。作物という人工物をつくるのではなく、農場という自然場を豊かにすることだった。そのシステムには「廃棄物」という発想は全くといっていいほどなかった。すべては自然の循環構造のなかで消化されていったのである。産業と環境とが調和していたと言っていい。いやむしろ農業のおかげで自然が生き生きしていたという面もある。まさに自然と人間とが積極的な意味で相互支援の関係にあったわけである。

 もちろんそれで増えつづける人類の生活がすべて賄えるわけではないかもしれない。しかし、近代化路線と全く正反対の産業システムがそこにはあったと言っていい。これからの持続可能な発展を考えていく上で,そこには大きなヒントがある。

 注意しなければいけないことは、近年の農業は「工業化」が進められていることである。産業の時代は農業にも「使い捨て型発想」を持ち込んだ。ここで述べている「農業」はそうしたものではなく、日本古来の農業を指している。

  農業から学ぶことは循環型の産業システムだけではない。最近実感できなくなってきた「働くことの手ごたえ」や「多様な生命との触れ合い」、あるいは「多様な働き手による協働の楽しさ」や「相互支援関係の喜び」などを、私たちに思い出させてくれるだろう。そうしたことが、近年の索漠とした社会状況を変えていく契機になるかもしれない。

 さらに重要なことは、近年の地域づくりが捨ててきた「土に根ざした地域づくり」のヒントが、そこにはたくさんこめられているということである。農業が取り組んできた「土づくり」は、田畑だけではなく、「地域づくり」「人づくり」につながっている。農業は単なる「産業」ではないといういわれるように、地域の文化や暮らし、地域景観などに大きく関わっている。これまでの行政の枠組みでは、農業は産業政策の一環として位置づけられがちだったが、これからはもっと大きな視野で考えていく必要がある。地域主権を実現していくことは、とりもなおさず、土からの地域づくりといってもいいが、農業の役割を改めて再評価する必要がある。  

◯ごみ問題を通しての私たちの生活革新

  環境の時代、そして地域主権の時代の到来は、私たち一人ひとりの生きかたの見直しを迫っている。私たちはそのいずれにおいても、もはや傍観者ではいられない。まさに当事者なのである。環境問題に取り組まなければならないのは産業界や行政だけではないことはいうまでもない。環境問題とは前述した通り、つまるところは私たちの生活の結果なのである。そして、地域主権の実際の担い手はまさに私たち一人ひとりである。

 自然界には「廃棄物」がないと前述したが、落ち葉や枯れた草木、生き物の死骸や糞など、人間の世界でのごみに相当するものはたくさんある。しかしなぜか私たちはそうしたものをあまり「汚い」とも思わないし、放置しておいても、自然がそれを消化し還元してくれる。私たち人間も、そうした自然の一員であるから、通常であれば自然の浄化力や循環システムの中で排出物は還元されるのだが、残念ながら、私たちはその限度を超えた生き方をするようになってしまった。そのことを、まず私たちはしっかりと認識しなければならない。

  日本には「地産地消」という思想があった。地域で産したものを食べるのが一番いいという思想である。「身土不二」とも言われるように、人間と土とはつながっているという考えがその根底にある。もし土(地域)と身体がつながっているのであれば、地域を汚すわけにはいかなくなる。生活のあり方の見直しは、まずそこから始めるのが現実的である。

  生活を象徴しているのはその結果としての排出物、つまりごみである。「地産地消」という考えを延長させれば、「自分たちが出したごみは地域で処理しよう」ということになる。その第一歩は、私たちの生活残渣、特に毎日の生ごみを各家庭で処理することである。生ごみを自然の循環システム(土)に戻すことはそう難しいことではない。問題はその土をどうするかである。この解決の鍵もおそらく農業にある。

 農業とごみ。これまではあまりつながっていなかったこのふたつが、これからの持続可能な社会づくりに向けての二大柱になっていく可能性がある。これまでとは違った発想や枠組みで、農業政策や環境計画をとらえていくことが必要である。

○循環型地域社会づくりに向けて

  それぞれの地域が自立し、自らの持続可能性を高めていくことは、持続可能な発展の実現につながっていく。これからの自治体は、名実共に自立した自治体として、自らの持続可能性を高めていかなければならない。新しい時代の自治体の目指す目標はサスティナブル・コミュニティ(持続可能な地域社会)である。それは行政だけでは実現しない。むしろ住民が主役になって、知恵と汗を出して、行政と共創していかなければならない。

 では、サステイナブル・コミュニティとはどのようななのだろうか。 産業化の最先端を走っていた米国では、20世紀後半に入るとコミュニティの崩壊が進んでいくが、そうした問題を憂慮した自治体の幹部が、1991年、カリフォルニアのアワニ−ホテルに集まり、コミュニティの再生に向けての議論が行われた。そこで採択された「アワニー原則」は、まさにサステイナブル・コミュニティのあり方を示すものとして注目されている。その内容は次の通りである。

@ 省資源・省エネルギーのまちづくり
A 自動車交通をなるべく抑制し、公共交通機関をできるだけ活用
B 自然との共生
C 居住環境と職場環境のミックスト・ユース
D まちなかにおけるオープンスペースの確保
E 個性的で多様性のある居住環境
F 住民の帰属意識の対象となるようなまちのアイデンティティ(個性)  

 軽く読みながすと何か当然のような気がするが、ついしばらく前までの日本のまちづくり(自治体行政も含めて)の方向はこうした考えとはむしろ反対のほうを向いていたように思われる。産業と同じく、日本のまちづくりも、持続可能性という点ではまさに逆行していたともいえる。

 アワニ−原則にもとづいたサステイナブル・コミュニティへの取り組みは日本でも少しずつ始まっているが、まだ日本の土に合わせた独自の取り組みは多くはない。

  東久留米市は、東京都では最も生産緑地の多い都市である。しかもまだ湧水にも恵まれている。水がいいということは土がいいということでもある。そうした立地を活かして、新しい日本型サステイナブル・コミュニティの実現に取り組み、世界に向けて提案していくことができないものだろうか。 新しい歴史のはじまりに向けて、東久留米市からぜひとも新しい風を起こしていきたい。

(佐藤修:2000年3月)