日経産業新聞コラム「同論異論」掲載記事(1989年)

編集途中です。


〔同論異論/1〕

 3月7日、わが国初の民間通信衛星が打ち上げられた。4月には2号機の打ち上げも予
定されている。これを契機に、通信衛星を活用した様々な新事業や新システムが開発され
ていくことは間違いない。衛星などというと、自分とは無関係の世界と考えがちだが、通
信衛星を情報のインフラと考えれば、産業はもちろん生活の面からも社会に与える影響は
非常に大きく、私たちも無関係でいられるはずはない。少なくとも産業人としては、通信
衛星との関わり方を一度考えておく必要がある。
 通信衛星のみならず最近の情報インフラ整備は目覚ましいものがある。そのお陰で「情
報」の地域格差は縮小し、「情報」へのアクセスも容易になってきている。家庭にいなが
らにして、パソコン経由で世界の情報を検索入手することも可能である。
 しかし、いくつか気になることもある。世間に流通する「情報」の量は加速度的に増加
しているが、その結果、「情報」の単位当たりの価値は急速に低下している。今やほとん
どの「情報」が、だれでも知っているか、あるいは簡単に知ることができるものである。
それは決して悪いことではないが、「情報力」という点では無力である。知らなければ困
るが、知っていてもどうということのない情報が多くなっている。マスメディアに情報を
のせることの価値はますます大きくなっているが、マスメディアにのった情報の価値は急
速に低下しているのが実状だろう。
 情報の加工度が高まっていることも問題である。情報技術の発達や情報分析専門家の出
現により、事実は懇切丁寧に分析解釈され、分かりやすく表現されるようになった。メデ
ィアにのる場合には、さらに加工度は高まる。私たちの前に現れる情報の多くは、二次、
三次の加工情報である。事実との間には多くのフィルターが入り込んでいる。それは「ナ
マ情報」よりは使い勝手はいいが、もしかしたら事実の持つ本質的な意味が失われている
かもしれない。加えて、情報の量的増大による情報不感症という問題がある。あまりに多
くの情報に接しているために、情報に対する私たちの感覚は麻痺し、自分自身として情報
を消化しなくなってしまう傾向もある。
 技術やインフラの面での情報化の進展は、逆に情報の意味を希薄化し価値を失わせてい
ると言ってよい。テクノロジーとしての情報化が,セマンティクス(意味論)としての非
情報化を引き起こしているおそれが強い。
 確かに私たちの周りには「情報」が溢れている。しかし,それらは本当に価値ある情報
なのか。最近のリゾート開発や大企業の事業戦略を見ていると、むしろ今進んでいるのは
「非情報化革命」なのではないかという気にすらなってしまう。
 情報化社会は,そこに住む私たち一人ひとりの情報化ができて始めて完成する。私たち
は用意された「情報」に従って動く部品であってはならない。通信衛星による飛躍的な情
報インフラ整備に対して、私たちも自分自身の情報主体性を高める必要がある。そうしな
ければ、折角の情報技術の発展も、害になっても益にはならない。

〔同論異論/2〕

 神奈川県の長洲知事が「地方の時代」の創造を提唱したのは、ちょうど今から十年前だ
った。その後、果たして「地方の時代」は創造されたであろうか。
 「地方」の位置づけには二つのベクトルが存在する。一つは「中央のための地方」であ
る。地方は中央に住む人のための市場や観光地として開発されるべきだという発想である
。産業にとっては新しいフロンティアの発見と言ってもよい。もう一つは「地方の自立」
である。地方が中央のための存在であることをやめ、そこに住む人のための自立した地域
を確立することであった。
 長洲提案の趣旨はもちろん後者である。自立した個性的な地方が全体を構成するという
"ホロニック"な発想は、従来の産業政策や行政のベクトルの転換を要求するものであっ
た。しかし、現実はどうもそうなっていないようである。最近の「ふるさと創生資金」騒
動がそのことを端的に物語っている。
 「ふるさと創生資金」で誰が得をし、誰が損をするのか。まず間違いなくメリットを受
けるのは、中央のシンクタンクやイベント業者である。「ふるさと創生ビジネス」という
言葉ができているように、一億円の使い道を考える手伝い仕事は繁盛しているらしい。そ
の結果がどうなるかは、最近の「リゾート開発」や「地方博覧会」で充分実証されている。
 さらにサービス産業のみならず、れっきとしたメーカーまでもが「ふるさと創生需要」
を狙った特別部隊をつくりだした。企業にとっては、所詮、地方は中央の市場でしかない。
 なぜこうしたことが起こるのか。それは貪欲な中央の企業のせいだけではない。むしろ
問題は地方の行政体にある。つまり地方行政体は政策形成能力や企画能力を失ってしまっ
ているため、資金をもらっても何をやっていいのかわからなくなっている。
 これは「行革後遺症」と言ってよい。行政改革は行政の役割そのものや基本的なあり方
の見直しをするべきなのに、そこには力を入れずに「無駄を無くす」という瑣末なことに
エネルギーをさきすぎたように思う。そのために、短期的な現実対応には形を整えられた
が、長期的には逆に自らの役割を果たす力を失ってしまっている。ちょうど、重厚長大の
大企業が経営効率化路線の結果、時代対応力を弱めて力を失っているのと同じである。
 そうした状況の中では、今回の「ふるさと創生資金」はますます地方の自立を遅らせる
仕組みになりかねない。地方行政体が中央から「カネ」と「知恵」をもらわなければ何も
できなくなっていくことに加担するだけではないか。残るのは「ふるさと創生後遺症」で
ある。
 地方自治体がいま取り組むべきことは、資金を使った賑やかなイベントではなく、自ら
の役割のリストラクチャリングである。一部の行政体が真剣な行政体CI(コーポレート
・アイデンティティ)に取り組んでいることは高く評価できる。国も地方に対して一時的
な資金を交付するような「卑しい」施策でごまかすのではなく、地方の自立に役立つ構造
的な仕組みを考えるべきではないか。

〔同論異論/3〕
企業倫理ではなく企業論理

 リクルート事件を契機に、企業倫理や企業の社会的責任が改めて問題になっている。経
団連では「企業倫理に関する懇談会」まで設け、その中間報告で経営者の認識の重要性を
強調すると共に、『自主的な倫理規定の制定』を呼びかけた。
 こうしたことが議論されるのは今回に始まったことではない。古くは昭和36年に経
済同友会が「経営者の社会的責任の自覚と実践」について決議し世に発表しているし、昭
和五十年前後にはオイルショック時の企業行動に対する批判を受けて『企業とは何か』と
いう問いかけが社会的に広く行われている。
 議論の繰り返しは事件の繰り返しでもある。その時々の事件に対して、議論は確かに一
つの効果を持っていたし、現在の議論も意義のあることだとは思う。しかし、何故、かく
も同じような議論を繰り返さなければならないかを考えることも必要だろう。問題を『倫
理』や『責任論』でとらえてしまっていいのだろうか。
 『豊かな社会』の実現にとって、企業の果たした役割は極めて大きなものであった。個
人主義的自由を前提とした経済体制の核として、企業は価値の創造に果敢に挑戦し、効率
追求により価値の大衆化を進め、豊かさの実現に邁進してきた。現在の『豊かさ』が、こ
うした『企業活動』に大きく依存していることは否定できない。
 しかし、企業もまた社会の一員である以上、社会の変化は企業に対しても変化を要求す
る。企業が目標とした『豊かさ』の実現に伴って、企業そのものの役割やあり方を変えて
いかなければならないことは当然のことである。それは、『企業の倫理』の問題ではなく
『企業の論理』の問題である。
 新しい時代に向けて企業が存続していくためには、変化する社会の中で、自らのあり方
を変え、自らの役割を変えていくことが必要である。最近、産業界で話題になっているリ
ストラクチャリングは、そうした企業自らの変身戦略にほかならないが、そこで考えられ
ていることは、往々にして自閉的な実態変革か事業構造転換に留まりがちである。発想の
原点はこれまでと変わっていない。
 もちろん、そうしたことも大切ではあるが、今必要なことは、個々の企業を超えた企業
社会のあり方、会社と社員との関係、さらには新しい時代における企業制度そのものの役
割やあり方の問い直しではないだろうか。新しい企業の文化が求められているのである。
 確かに、経営学の分野では新しい企業論や経営論の提案が始まっているし、一部の企業
では実験的な試みも行われている。しかし、問題の重要性を考えれば、そうした部分的な
取り組みではなく、今こそ社会の知見を結集して、新しい時代に向けての企業パラダイム
の再構築と実現に取り組む必要がある。
 『企業倫理』などというセンチメントな世界で問題処理するのではなく、新しい文化創
造の視点から、企業や企業社会のあり方を正面から見据えていくべき時期である。経済の
分野で最先端を進みつつある「経済大国」日本にとって、それが世界に対する責務ではな
いだろうか。


〔同論異論/4〕

 女性の職場進出は、今ではとりわけ話題にならないほど一般化している。外で働く女性
は千五百万人を突破し家事労働者を上回り、今や全雇用者の三人に一人は女性である。女
性の管理者や経営者も増えてきている。
 こうした動きは、男性中心の固定的な労働市場を流動化したばかりでなく、企業経営の
あり方を変えつつある。男性の論理で動いてきた産業社会に生活の論理を持ち込んだ効果
も無視できない。
 家庭の中で不完全燃焼していたとも言える女性の能力が、広く社会に解放されたことは
女性にとっても社会にとっても好ましいことであることは間違いない。
 女性の職場進出は女性の社会進出と同義と考えられがちである。確かに現代の日本のよ
うに、企業の役割が大きい産業社会にあっては、職場に進出することが社会との関係を強
める側面があることは否めない。だが、必ずしもそうとばかりはいっていられない。
 最近地元のある住民運動に参画し、地方行政の実態を垣間見る機会があった。「住民本
位」とか「自治の精神」とか言われるが、地方行政の実態はそれとは程遠いようである。
行政の仕事の仕方にしても、企業的な考えからすればとても考えられないような無駄が行
われており、正直言って唖然とすることが少なくなかった。
 その活動に関連して、わが地区の自治会総会にも始めて参加した。ここでもまた、自治
会が行政の末端組織になっているのではないかと思える節があり、愕然とすると共に反省
させられた。いずれも、たまたま私が住んでいる地域の特殊事情なのかもしれない。しかし、男性たちが会社で産業活動に没頭している間に、その足下の地域社会ではおかしなことが行われているのではないかという危惧を強く持った次第である。
 もっとも、当事者たちに悪意があるわけではない。自治活動や地域行政に関心を持って
参画する人が減少していることが、そうした状況をもたらしている最大の原因と言える。
男性たちは企業にとり込まれてしまい、自分の住んでいる地域行政へ目配りする余裕がな
いのが実状だろう。そのため、行政も自治会も苦労して活動しているのである。
 会社に勤務するということは、むしろ社会からの遮断を意味するのかもしれない。事実、生活感覚を失った男性たちは、今や企業活動の面でも力を弱めており、生活感覚を持って新規参入してきた女性たちがマーケティングやマネジメントで重宝され始めている。
 こう考えてくると、女性の職場進出は決して社会進出と同義ではなく、むしろ社会から
遮断される危険性をもっていると言える。これまで男性不在を補っていた活動的な女性た
ちが、職場進出や社会活動という名目で地域から外に向かってしまっているため、地域活
動はますます「人不足」になっているようである。
 こうした視点から、女性の職場進出をもう一度考え直す必要があるのではないか。女性
の職場進出を補完するために、男性の職場離脱がもっともっとあってもいいのではないだ
ろうか。政治改革の出発点は、案外こんなところにあるのかもしれない。政治家の問題ではなく、われわれ市民の問題である。

〔同論異論/5〕
       
 今年の就職戦線も既に終盤を迎えたと言われる。毎年の就職協定にもかかわらず青田買
い現象は一向に変わる様子がない。本質を見ない形式的な対応が効果をあげないことは当
然のことであり、就職協定発想には大きな異論があるが、その議論は改めてさせていただ
くことにして、今回は最近話題の理工系学生のメーカー離れについて考えてみたい。
 理工系学生の金融保険業への就職が増加している。それも有名大学にその傾向が強いよ
うである。こうした動きは米国のほうが先行しており、「科学技術が人手不足から衰退す
る」という意見も出始めているという。日本でも「産業の将来にとってマイナスになる」
と経団連が問題視し始めたという報道がある。
 よく言われることは、これはメーカーと金融関係の賃金格差に起因するということであ
る。確かに、両者には大きな格差がある。だが果たして問題はそれだけか、そしてまた、
こうした動きは本当に産業にとってマイナスになるのか。
 技術概念が広がってきている。バイオテクノロジーに例を見るように、これまで別々の
道を進んできた生物科学と物理科学が分子レベルで交流を始め新しい技術領域を発生させ
ているが、さらに精神科学,社会科学へと技術の世界は次々と広がりつつある。
 現代社会にとって、技術は活動のインフラとなりつつある。芸術さえも今や技術から無
縁ではいられない。現代はまさに、「技術社会」なのである。技術が物をつくるためのも
のであった時代は終わりつつある。社会を的確に把握し関わっていくためには、技術の理
解が不可欠である。
 一方、技術サイドにとっても、もっともっと社会と関わっていく必要がある。これだけ
技術が街中に出てくる時代にあっては、社会との接点が技術の発展にとってのポイントと
なる。技術を研究所やメーカーに閉じ込めておくことは、技術の論理としても成立しない
。科学が技術とつながって一段と前進したように、技術は社会とつながって新しい発展を
実現するだろう。古い科学技術は衰退するかもしれないが、新しい科学技術は技術者の社
会全般への広がりと同時に発展していくだろう。技術者が様々な領域にいることは、メー
カーにとっても有利になるはずである。
 目先の人手不足と時代の潮流変化とを混同してはならない。学生たちの行動は、そうし
たことを先鋭的に感じとっての選択のように思われる。決して賃金だけの問題ではない。

 そもそも理工系とか事務系という分け方自体が意味をなさなくなりつつあるように思わ
れるが、その体系の再構築も含めて、むしろメーカー以外のところに積極的に人材を送り
込むことを奨励すると共に、そのためのカリキュラムの見直しが必要になってきているの
ではないだろうか。経団連のようなところには、そうした視点からの本質的対応を期待し
たいものである。
〔同論異論/6〕
 最近、NTTのある支店がホームサービスセンターを新設し、その所長に社外の女性を起用した。「生活と企業とのかけ橋をめざしたい」というのが彼女の抱負だという。おそらく、NTTの狙いもそこにあるのだろう。そもそも企業は生活に役立って始めて存続を許される。生活に役立つからお客様が存在し、お客様が存在するから商品やサービスを買っていただけるわけである。企業にとっては、生活こそが事業の出発点といってよい。しかも当然のことながら、企業に働く社員たちは、皆それぞれの生活を持っている。
 このように、本来企業は生活に直結した存在のはずである。ところがどういうわけか、外部の力を借りて生活とのかけ橋を作らなければならないほど、企業は生活と距離を持ってしまっている。これはNTTだけの問題ではないし、今に始まったことでもない。
 60年代の「公害」問題や七十年代の消費者問題も、企業と生活とのギャップが問題化した一例であろう。その都度、社会も企業もそれぞれ大きく学びはしたが、企業と生活との距離は縮まらず、新しい問題が何時出てきてもおかしくない状況が依然続いている。
 最近の「企業文化」論は、そうしたことへの不安の現れと言える。企業も利益追求だけではなく市民としての責任を果たすべきだとか、企業も文化活動に力を入れるべきだとかいう議論になると、ますますその感を強くする。
 しかし、本質はそんなところにはない。重要なことは、企業と生活との関わり方なのである。過労死や単身赴任をそのままにして、企業文化や企業市民論を語ることは、いかにも虚しい。社員一人ひとりの生活を大切にしない企業が、生活に役立つ商品やサービスを提供できるだろうか。外部の助人を頼まなければ、生活とのかけ橋が作れない企業はやはりどこかおかしいと考えるべきだろう。
 今回、NTTが起用した女性は、消費生活アドバイザーの資格をお持ちである。これは、消費者問題の高まりに対処して、十年ほど前に創設された通産大臣認定の公的資格である。生活の視点から、企業の商品やサービスの改善を図ることが使命となっている。確かにこの制度は、事業展開の面で企業と生活とをつなぐ役割を果たしてきた。しかし、企業が時代と共に息吹いていくためには、企業そのものがもっと社会に開かれなければならない。
 企業と社会の接点にあるのは、企業の広報スタッフである。広報スタッフは、「企業内野党」として、社会の動きや感覚を企業に取り込む役割を担っている。企業の中では最も社会に接しており、社内的な情報も一番多い。しかし、企業内における位置づけは必ずしも高くなく、しかも往々にしてマスコミ対応に追われがちである。生活の視点から企業を考える余裕はないというのが現実であろう。 そこで企業広報専門家の資格制度の創設を提案したい。さらに社会的視点からの広報監査制度も検討に値する。
 現在の高密度なネットワーク社会においては、一人の企業広報スタッフの動きが、企業の枠を超えて社会全体に大きな影響を与えることも起こりうる。企業広報スタッフの役割は、社会全体にとっても重要な意味を持ち始めている。客観的な権威に裏付けられた専門スタッフとしての公的資格制度の確立が望まれる。
〔同論異論/7〕
       
 政治基盤が音をたてて変化している。参院茨城補選でのゆり戻し以来、表面的な政局は
やや落ち着きを見せているが、動き出した変化はもはや止まらないであろう。しかし、変
化の先が見えているわけではなく、政治の不透明感はむしろ強まっている。
 そうした状況の中で、「政経分離」を絵に書いたように、経済は相変わらず好況を謳歌
している。政治の低迷とこの絶好調の景気とは、一体何を意味するのだろうか。
 企業の社会的責任論や企業市民論が盛んであるが、どういうわけかあまり政治について
は語られない。企業も社会の一員でありシチズンシップを持つべきだという議論であれば
、政治との関わりも忘れてはならない。
 企業の中で政治を語ることは難しい。企業の歴史の中で、政治との関わりが様々な問題
を起こした記録も多い。労働争議はその典型と言っていい。ややこしい政治との関わりは
極力やめて、いわゆる「経済活動」に専念してきた結果が、今の日本企業の繁栄の要因か
もしれない。政治意識の高い社員は排除されてきたのが、おそらくほとんどの企業におけ
る実態ではないだろうか。
 しかし、時代は変わりつつある。企業は経済の世界に生きているのだから政治は与件で
あるという考えは、もはや適切ではない。そもそも、経済、文化、政治を別々のものと考
える発想が問い直されているのである。あらゆる分野でボーダーレス化が進んでいるが、
政治と経済の関係もリストラが必要だろう。
 企業としての政治無関心は、そこに属する経営者や社員の政治意識の希薄さの結果でも
あるだろうが、企業と政治とをつなぐ有効なシステムがないというのも大きな理由であろ
う。現在、企業と政治とのパイプとしては労組と政治献金がある。だが、そのいずれも、
企業としてそれほど積極的な意味を与えているわけではない。しかも企業の中核を構成す
る社員たちは、そのいずれからも疎外されている。企業と政治とをつなぐ有効なシステム
とはなっていない。
 財界を通した政治との付き合いもないわけではない。しかし、それもまた、個々の企業
の意思とは次元の違う話になりがちである。 もし企業にシチズンシップが求められるの
であれば、文化も大切だろうが、政治こそ大切である。企業社会と言われるほどに企業の
存在が大きくなっている今、企業を抜きに政治は語れない。その企業が政治に無関心であ
っていい筈がない。「経済一流、政治三流」という言葉がまた最近言われ出しているが、
政治三流の主因は「経済人」たちにあることに気づくべきである。政治の混迷をプロ野球
のゲームと同じ次元で語り合っていてもよくならない。
 政治との関わりは自己の価値観を明らかにすることでもある。企業及び企業人たちは、
そろそろ積年の「没価値観」志向をやめて、政治との新しい関わり方を真剣に考えるべき
時期である。そして、あるべき政治ビジョンの実現に向けて、創造的な英知を出していく
べきではないだろうか。
〔同論異論/8〕
 産業界では「生活研究所」設立がブームになっている。経済の成熟化の中で顧客の顔が見えなくなってきたことがその一因であろうが、「生活」が改めて問われ直されていることは悪いことではない。しかし、企業が競って生活研究所をつくりだしたことには、いささかの疑問を感じざるを得ない。
 そもそも企業の出発点は人々の生活に役立つことである。商品やサービスを通して、あるいは働く場の提供を通して、企業は人々の生活に深く関わっている。ことさら研究所をつくって「生活者」や「生活文化」を「研究」する必要がどうしてあるのだろうか。「生活」を研究対象にしなければならないほどに、企業は「生活」から離れてしまったのだろうか。
 最近は「消費者」に代わって「生活者」という言葉が使われてきている。消費力として人間をとらえるマス・マーケティングの有効性が失われたことがその背景にある。言うまでもなく、人々は「消費するために生活」しているわけではなく、「生活のために消費」しているにすぎない。企業が役立つべきは、「生活のために」であって「消費のために」ではない。
 企業が改めて生活を考えなければならなくなったのは、単に市場が成熟したとか、人々が生活の質を問題にしはじめたという環境変化によるだけではないだろう。企業の中に「生活」がなくなったということが一番の理由ではないか。「企業戦士」という言葉が象徴的に語っているように、企業に属する人々は自らが生活する存在であることを忘れてしまっている。
 これを傍証する材料には事欠かない。定年退職者がどうなるかもそのひとつである。退職してからも見事に生活している人がいないわけではないが、「濡れ落ち葉」となってしまう人も少なくない。 女性パワーの活躍も無関係ではない。商品開発やマーケティング分野での彼女たちの活躍を支えているのは「生活感覚」ではないか。企業内にどっぷりつかって生活を忘れてしまった男どもには、とても太刀打ちできない元気がある。
 多くの企業人は、今、生活を忘れてしまっているように思えてならない。その結果、生活者たちの姿が見えなくなってしまったのではないか。犬や猫がいくら一生懸命に人間を観察しても人間のことは分からない。極端な比喩ではあるが、生活していない人が、生活者をいくら観察しても、その姿は見えるはずがない。研究論文はできるだろうが、それだけの話である。
 企業に必要なことは、経営者はもちろん社員をしっかりした生活者にしていくことである。企業外部にいる「生活者」を観察する研究所をつくることではない。
 もし生活を研究する必要があるとすれば、それは地球環境問題につながるような人類の生き方の研究のような次元でなくてはならない。それは,もはや個別企業の問題ではなく、産業界全体として取り組むべき課題である。各社が生活研究所に投入する資金を集めたら、地球と歴史のために、大きなことができるはずである。