企業変革に向けてのコーポレート・デザイン
企業の閉塞状況を打破するデザイン発想への期待

●分業発想の限界
 時代の大きな変わり目の中で,企業のあり方が問われている。その最大のポイントは,
これまでの企業の発展を支えてきた「分業発想」の見直しである。
 企業の発展はアダム・スミスのピン製造の話から始まったと言っていい。一人だと不完
全なピンをせいぜい1日に20〜30本しか作れないが,その製造過程を単純な反復的作業に
分解し, 何人かでチームを組んで機能に応じて仕事を分け合うならば,完全なピンを1日
に何十万本も作ることができるだろうというのが,彼の指摘だった。生産性は飛躍的に上
昇する。こうした分業発想に基づいて,企業は「生産性革命」(ドラッカー)を実現し,
見事なまでに成功を収めてきたのである。
 しかし,その分業体制が壁にぶつかりだしている。分業の細分化が限界に達したため,
これ以上の生産性向上が難しくなったばかりではない。むしろ細分化されすぎた結果,全
体としての生産性が損なわれだしたのである。部分での最適化が全体の最適化につながら
ない事例が様々なところで見え出してきた。最近,話題の「リエンジニアリング」は,こ
うしたことへのひとつの答えである。単なる技法としてではなく,基本的な発想の転換と
して受け止めるべきだろう。
 行き過ぎた分業化は,人間の感性からも反発を受け出した。企業の成功により「豊かな
社会」が実現されるにつれて,反発はますます強まってきた。担い手である人間に反発さ
れるような体制は,長い目でみれば成功するはずがない。それは歴史が明確に示してい
る。企業もその例外ではない。経済の成熟化がそれを加速する。分業化された個々の作業
を決められた通りにこなす「労働」ではなく,全体の流れの中での作業の意味をしっかり
と把握した「人間の仕事」が大切になってきている。労働をベースとした分業発想ではな
く,人間の視点からの企業活動(構造)の組みかえが求められている。
 マネジメントの上で分業発想が問われ出しただけではない。もっと大きな意味でも,企
業の分業発想が問題にされつつある。果たして企業はこれまでのように「経済の分野」だ
けで活動していていいのかという問題である。企業は確かに経済活動を行っているが,そ
の効果は経済にとどまるわけではない。文化や政治にも深く関わっている。企業は単なる
経済機関ではない。社会的存在であり,極めて文化的な存在でもある。企業の存在がここ
まで大きくなってくると,そうした側面が非常に重要になってくる。それは当然,企業の
あり方や活動に影響を与えることになる。コーポレート・フィランソロピーや企業メセナ
の動きは,こうした流れの中で捉えられるべきだろう。
 企業の未来は,これまでの分業発想の延長にはない。創業の原点にもう一度戻って,時
代を意識した企業全体の枠組みを改めて再設計(リデザイン)しなければならない。それ
が,時代の変わり目の中で企業が再び大きく発展する鍵である。

●経営者から企業家へ
 ここ数年,日本企業は様々な「企業変革ブーム」を体験してきた。CI,リストラ,企
業文化変革,経営パラダイム転換,アンラーニング革命,経営理念の見直し,CS経営,
共生経営,その言葉には事欠かない。
 しかし,果たして企業は変革されてきているのだろうか。実際には何も変わっていない
のではないか。確かに様々な新しい動きはあったが,ひとたび事業環境が逆風になってし
まうと,新たにつくられた理念やビジョンは片隅においやられ,「雇用調整」や「業務効
率化」へと企業の関心は移ってしまう。雇用調整や業務効率化そのものが悪いわけではな
いが,ほとんどの場合,旧態依然の分業発想に立脚した問題改善型にとどまっている。そ
れでは問題は解決しない。
 こうした動きを見ると,近年の企業変革ブームやCIブームは一体何だったのかと言わ
ざるをえない。いやむしろ,企業変革に成功しなかったが故の現在の「不況」と考えるべ
きかもしれない。いずれにしろ,企業経営の根底には分業発想が依然として残っている。
当面の危機を乗り切るためには仕方がないということかもしれないが,ゴーイング・コン
サーンとしての企業の長期的な力を損なうおそれは否定できない。全体を鳥瞰した戦略的
発想が今こそ必要だろう。
 企業変革に成功し,しっかりした戦略展開をしている企業は,この「不況」下でも元気
である。分業化の結果,見えなくなっていたお客様を,発想の転換で再発見した企業は事
業を伸ばしているし,分業によって社員を閉じ込め過ぎた企業は「余剰人員対策」に追わ
れているが,社員の仕事場をしっかり用意している企業は厳しさの中にも発展の契機を見
つけ出している。
 企業はなぜ変革しなければならないのか。変革すべきことの核心は何なのか。そうした
ことの認識の有無が,今後さらに企業の明暗を大きく分けていくだろう。その出発点は部
分的に問題を解決していくという姿勢を捨てるかどうかである。大切なことは,経営にお
ける全体像の回復であり,社会全体や企業全体と個々の仕事や社員との関係を再構築する
ことである。
 前述したように,リエンジニアリングは分業発想への反省から出発している。しかし,
これまでの企業変革戦略の多くも,議論のはじめにおいては同じように全体像の回復を志
向していたにもかかわらず,次第に分業発想の虜となって,効果を失ってきたことを忘れ
てはならない。
 たとえばリストラは企業の持つ事業資源や活動領域(事業ドメイン)を鳥瞰し,新しい
組み合わせによって事業拡大を図ることを狙いとしていた。それがいつの間にか分業の発
想で事業を整理し,赤字事業や「無駄な要員」の切り捨て策へと変質してしまった。CI
も部分発想や縦割り発想を捨てて企業全体を横断的に総括し,企業全体の力を社会の中で
活かしていくところに意義があったはずなのに,現実的には部分的な問題解決学や「装い
の技法」に堕してしまった。リエンジニアリングもいつそうならないとも限らない。
 いま必要なのは技法ではない。様々な技法を使いこなすための理念とビジョンである。
求められているのは,企業を維持管理するだけの経営者ではなく,新しい理念とビジョン
に基づいて企業そのものの変革を構想する企業家であり,これまでの延長で戦略構築する
分析的な経営参謀ではなく,新しい感性をもって企業の全体像の回復に取り組む創造的な
スタッフである。

●企業経営におけるデザインの広がり
 企業は全体として「生きている」。事業戦略は企業文化と不可分だし,組織や制度は社
員一人ひとりの意識と行動によって実体化される。それらは相互に関わっており,企業文
化軸,事業戦略軸,組織制度軸を別個に考えていては変革は実現できない。戦略を策定す
ればいいわけではないし,企業文化を変革するだけで終わる話でもない。ましてや組織や
制度を変えるだけで済むことではない。全体として把握していかねばならない。しかも,
それらは企業内で完結しているわけではなく,社会全体の中で考えていく必要がある。
 「生きている」企業を全体としてどう組み替えていくか,その至難の課題に企業はいま
直面している。それは,これまでの問題解決手法で取り組める問題ではない。新しい理念
と方法論が必要である。その解答は残念ながらまだ明らかではないが,最近使われだした
「コーポレート・デザイン」という発想にひとつのヒントがあるように思われる。
 デザインという言葉は,わが国では主に「意匠」「図案」という意味で使われていた
が,最近はライフデザイン,地域デザイン,環境デザインというように,様々な言葉につ
けて使われだしている。それがあまりに多岐にわたっているため,デザインという言葉を
安直に使いすぎるという批判もあるが,「デザイン」という言葉は本来,「図案」を超え
た大きな意味を含んでいる。
 現代デザイン事典(平凡社)によれば,「デザインとは,近代以降,生活のために必要
ないろいろな物をつくるにあたって,物の材料や構造や機能はもとより,美しさや調和を
考えて,ひとつの物の形態あるいは形式へとまとめあげる総合的な計画,設計のこと,ま
たそうした過程でつくられたもの」とされており,そこには,意匠(図案),設計,計画
という三つの意味が含まれているという。したがって,最近ようやくデザインの言葉が本
来的に使われだしたと考えていい。
 企業でも経営活動の中で「デザイン」という言葉を多様に使いだしている。たとえば資
生堂では企業変革に取り組む全社組織をコーポレート・デザイン部,長期経営計画をグラ
ンドデザインと呼んでいる。日本経済社では企業変革プロジェクトをコーポレート・デザ
イン活動と命名した。組織デザイン,戦略デザイン,ワークデザインなどという言い方も
広がっている。
 そうした動きの中には,単に目先を変えるだけの「言葉遊び」も少なくないが,「デザ
イン」という言葉が持つ新しい発想,新しいメソドロジーへの期待もあるように思われ
る。もしかすると,それが企業の閉塞状況を打破してくれるのではないかというわけであ
る。確かに,デザイン発想にはこれまで企業が軽視してきたいくつかの新しい視点があ
る。

●デザイン・パワー
 先の定義にもあるように,デザインは対象(当然ながらそれが置かれるであろう状況全
体を含めて)を総合的に捉えて全体を設計する活動である。分業発想とは全く異なるアプ
ローチと言っていい。分業発想の見直しという企業の経営課題に対して,有効なツールに
なることは間違いない。
 デザインはまた,抽象化作業と具象化作業とを統合しているという点でも総合性を持っ
ている。単に世界を総合的に認識するだけではなく,それをひとつの形に具現化する,つ
まりある世界をひとつに凝縮するというところに,デザインの大きな役割がある。言い換
えれば,具現化されたひとつの形で抽象的な世界(構想)を語ることができるのがデザイ
ンである。
 「デザインとはコミュニケーションである」と言われるように,具現化されたものが関
係者のコミュニケーションを促進させることも,デザインの大きな効用だろう。理屈を超
えて,共感を呼び起こすことがデザインで可能になる。そのためには関係性や美的調和が
重視される。唯我独尊的な発想は受け入れられず,かといって個性のない発想は評価され
ないから,独自性と普遍性とのバランスが重要になってくる。
 デザインの持つ変革力も重要である。近代デザインの先駆者,ウィリアム・モリスの思
いは,もののデザインを通して人々の生活を変革し,社会をよりよいものにすることだっ
た。新しいデザインの出現は,それがしっかりした理念に裏付けられているかどうかは別
にして,そのものと周辺との関係を変化させ,全体を変えていくのである。企業にとって
の“ゆらぎ”の大切さが見直されているが,デザインはゆらぎを起こす大きな力を持って
いる。デザインの実体変革力はもっと意識されていいだろう。
 では,そうした変革はどこを向いているのか。先の定義には明示されていないが,様々
なものをまとめあげるためには明確な目的と理念(コンセプト)がなければならない。全
体像を把握し,それを束ねる理念を明確にするという方法論こそ,時代の変わり目の中で
企業に求められていることである。デザインワークにとっても,ものとしてのデザインに
とっても,そうした方向性は重要である。
 変革性は当然,創造性につながる。理念に基づく想像の世界を実体として創造していく
ことが,デザインワークの課題である。対象が都市のような場合は,とりあえずの実体は
模型図かもしれないが,抽象の世界を実体化するという点では,もののデザインと同じで
ある。組織(企業)については,まだ全体を具現化する有効なメソッドは確立されていな
いが,象徴的に示していく手法(CIシンボルやイベントなど)は試みられている。
 デザインはまた,理論的な積み上げよりも感性と直観を大切にする。人間的な好き嫌い
や常識的な生活感覚が重要な拠り所であり,部分の整合性よりも外部との整合性が重視さ
れる。その結果,全体の最適化が図られやすい。論理展開に拘束されないだけ,発想の飛
躍が行われやすいことも重要なことだろう。

●デザイナーによる企業変革事例としてのCI
 このように,デザイン発想には,全体性,総合性,変革性,創造性,関係性,直観性,
人間性,飛躍性,凝縮性,美的調和性など,様々な特徴がある。近代デザインの歴史は,
こうしたデザイン・パワーを開発し,高める歴史でもあった。
 工業製品の粗悪さを否定して手工業に戻れと主張したウィリアム・モリスの嘆きは,工
業と芸術の総合を志向するバウハウスなどの活動によって昇華され,近代デザインという
立場を確立し,産業(企業)の発展に大きく寄与してきた。それは分業発想を補完するも
のとしてのデザインであり,経済性機能性の行き過ぎをバランスするものとしてのデザイ
ンだったとも言えるが,それでもデザイン発想が果たした役割は極めて大きかったと言っ
ていい。同時に,その過程で蓄積された様々なノウハウによって,デザイン発想はものづ
くり以外の分野へと広がっていった。
 だが,工業と芸術の総合はそう簡単な話ではない。デザインは発想よりも機能として重
宝がられ,次第にデザイナーという特殊な専門技術集団へと閉じ込められていく。とりわ
け日本企業にあっては,残念ながらデザインは単なる図案や意匠の問題になり,それも全
体から切り離された,まさに分業体制の一翼を担う存在へとなってしまった。そればかり
か,デザイン過程そのものが過剰に分業化され,「デザイン発想」そのものが失われつつ
あるのが現実である。その結果は見事に商品に現れている。もし,モリスが近年の日本企
業の商品を見たら何というであろうか。生活にとって不要な(作り手も使いたいと思わな
いような)奇妙な商品,質感のない使い捨て商品,自然との調和を欠く「死んだ商品」な
どの氾濫を嘆くのではないだろうか。デザイナーのよろこびが伝わってくる商品は決して
多くない。
 こうした状況は,いわゆるデザイナーだけの責任ではない。分業体制,経済主義,効率
志向を標榜する企業のあり方の結果である。せっかくのデザイン・パワーを持ちながら,
デザイナーは分業発想に基づいて与えられる目先の個別課題をこなしていかなければなら
ない。創造的であるよりも技巧的であることが評価されることも少なくない。
 もちろん,そうした動きに飽き足らずに,企業変革に立ち向かうデザイナーも少なくな
い。彼らは当然にそれなりの効果を発揮する。たとえば,CIブームがそのひとつの現れ
だった。戦略発想の経営コンサルタントとは別の視点で,CIデザイナーたちが企業変革
を仕掛けていったことは,まだ記憶に新しい。
 たとえば,松屋やINAXの見事な企業変革事例の背後には全体を鳥瞰したデザイン発
想がある。松屋に関しては立地する銀座地区全体,またINAXに関しては事業ドメイン
市場全体を視野に置いたデザイン発想で,これまでの分業発想や競争図式とは異なる成果
をあげたのである。同時に,企業を構成する社員一人ひとりが変革(企業再構築)に参加
できる仕組みもつくられた。従業員の経営参加はCIに始まったことではないが,経営理
念や企業変革そのもの,あるいは企業文化全般に関わるものとしては,CI運動ほどの広
がりと深さを持ったものはなかったと言っていい。
 デザイナーの柔らかな目で,分業体制に埋もれた企業を見ると,様々な問題点や資源活
用策がすぐ発見できることは当然のことである。その発見にトップが共感し行動を起こせ
ば,当面の効果があがることもほぼ間違いない。そこにCIの成功があり,限界があっ
た。成果を急ぐあまり,せっかくのデザイン・パワーを企業全体にではなく,小さな課題
(ブランド力強化やイメージ向上など)へと目を向けるCIデザイナーが続出し,結局は
企業の分業構造に取り込まれてしまったように思われる。
 デザイナー主導のCIが企業変革に成功したかどうかは評価の分かれるところだが,そ
れが企業の戦略スタッフや既存の経営コンサルタントに少なからず影響を与えたことは否
定できない。その意味ではCIブームはひとつの実験だったと言っていい。

●企業内デザイナーの新しい動き
 外部のデザイナーによる新しい経営コンサルテーション(その場合にも企業内部にパー
トナーがいることは言うまでもないが)とは別に,企業内デザイナーによる企業変革の動
きも増えている。たとえば,日本電気のコーポレート・デザイン部がその例である。
 同社は「美的企業」実現(企業変革と言っていい)を担う組織として,1991年1月にコ
ーポレート・デザイン部を発足させた。名称にただ「デザイン」を使用しただけではな
く,実体としてインダストリアル・デザインを担当していたグループを核にした組織であ
る点に大きな意義がある。
 同部の榊原晏部長はデザイン行為が本質的に備えている特質として,次の点をあげてい
る。
 ・なにごとかを生み出すクリエイティブな行為であること
 ・はじめに全体として「どうあればいいか」をイメージする行為であること
 ・本来的に「美」という概念を求める行為であること
 ・そして,その目的とするものは,私自身にとってのみならず,個人,生活,企業,産
  業,社会,文化に新しい価値をもたらすことであること
 そして,「これらは,デザインの新しい定義であり方法論だと言っても差し支えないよ
うに思います。『デザイン』をこのように定義すると,領域の如何にかかわらず,幅広い
分野で『デザイン』の考え方と方法論を利用することが可能になります」と述べている。
 まさに今,企業が失いつつある創造性,全体性,美意識がデザイン行為の本質と捉えら
れており,しかもそうしたデザインパワーを狭い造形の世界から解き放すことの意義が示
唆されている。同社ではこうした考えに基づき,コーポレート・デザイン部と企画部が連
携して企業変革に取り組んでいるが,そこに新しいシナジーが発生していることは間違い
ないだろう。
 榊原晏部長が指摘するように,デザインの方法論は普遍的な応用性を持っている。論理
(それも自社独自の)中心,数値主義,要素分析思考などをベースとした,これまでの経
営戦略発想のほうがむしろ特殊な方法論だったと言っていい。少なくとも,企業のパラダ
イム転換が求められている現在,デザイン発想の効用はもっと高く評価すべきだろう。
 日本電気のように企業内デザイナーが経営戦略と深く関わり,戦略スタッフとパートナ
ーシップを組んでいるケースはまだそう多くない。しかし,これからは経営戦略スタッフ
は自らもデザイン発想を身につけるとともに,デザイナー(社内外)との連携を深める必
要がある。デザイナーもまた,自らのデザインパワーを高めていくことによって,その期
待に応えていかなくてはならない。

●コーポレート・デザインの出発点
 閉塞状況にある企業を変革していくためのひとつのヒントがデザインにあるのではない
かという視点から,いくつかの動きを見てきたが,本来ならばここで,コーポレート・デ
ザインの枠組みや方法を示す必要があるだろう。
 既にいくつかの企業は,コーポレート・デザインの枠組みをつくりつつある。資生堂の
コーポレート・デザイン室は「よい会社をデザインする」ために,ビジネスデザイン(会
社全体のあり方),ワークデザイン(仕事のあり方),ソシアルデザイン(社会との関わ
り方)の三つの取り組みをしている。日本たばこ産業(JT)は「JTの力=戦略×あな
た×組織」という認識に基づき,戦略策定,意識改革,組織改革を進めている。こうした
動きはコーポレート・デザインの枠組みを考える上で,ひとつの参考にはなる。
 しかし,私自身にはまだそうしたフレームが見えてこない。というよりも,仮にそれを
書いてしまうと,これまでの企業変革の流れとあまり違わないものになる可能性が強い。
ただひとつだけ言えることは,コーポレート・デザインの出発点についてである。
 デザインという言葉には,「現状を否定して変革するための創造活動」というニュアン
スがある。この点については,本論ではほとんど触れなかったが,デザイナーの意識には
こうした志向が強いことは否定できず,それがまたデザイン・パワーの源泉にもなってき
た。デザインという言葉を使う意識にも少なからずそうした面がある。
 企業変革も,現状の延長での改善ではなく「現状否定による新しい企業づくり」である
べきだろう。創造的破壊を意識しているという点で両者は共通している。企業変革を志向
するコーポレート・デザインは経営論(手段論)というよりも,企業のあり方そのものを
問題にするという意味で企業論(価値論)と考えたほうがいい。
 したがって,コーポレート・デザインの出発点は,組織としての使命,つまり企業の存
在意義(企業価値)を明確にすることである。それも現状にとらわれることなく,大きな
視点から鳥瞰していく必要がある。しかし,「お客様へのお役立ち」や「価値の創造」な
どという抽象的な表現では「デザイン」はできない。基本は事業である。時代が大きく変
わってきている中で,果たして自社の事業(活動)は社会に役立っているのか,これから
も役立つのか,を歴史的視点で冷徹に,かつ具体的に見直さねばならない。その点をおろ
そかにしてしまっては,その後のデザインが砂上の楼閣になりかねない。
 同時に,組織としての性格(会社と社員の関係,会社と社会の関係),つまり組織経営
の基本的な考え方(経営価値)を確認することも必要である。それによって,誰がデザイ
ンするのか,またどこまでデザインするのかが決まってくる。経営戦略スタッフとトップ
とがコーポレート・デザインの主役であるとは限らない。
 このふたつ,企業価値と経営価値を明確にした上で,全体のデザインにとりかかるべき
だろう。いずれも極めて本質的な問題であり,そう簡単には明確にはならない。しかし,
そこを避けてしまっては,それこそ企業のスタイリングや外装的イメージの問題に堕ちて
しまう。
 大分県にあるオムロン太陽鰍フ重度身障者による福祉工場を見せてもらったことがあ
る。そこにはそれまでに見た工場の生産ラインとは全く異なる雰囲気があった。重度の障
害を持つ人たちが人間工学を駆使した機械設備とまさに共創関係を創出していた。目の見
えない人には音,耳の聞こえない人には光で情報が伝えられ,右手のない人には機器が右
手の役割を分担している。一人ひとりの個性に合わせた生産ラインの設計であり,そこで
の主役はまさに個人と言える。その工場に入った途端に,なぜか「あぁ,これが生産ライ
ンの原型なんだな」と感動したのを覚えている。
 生産ラインの設計はその基本となる価値観によって全く異なってくる。コーポレート・
デザインもまた,目的となる企業価値と経営価値によって異なる企業実体を創出する。ど
こに価値を置くかが,コーポレート・デザインに取り組む際の起点でなければならない。
 では経済機関としての企業にとっての効率はどうなるのか。もちろん,効率はいつの場
合にも必要だが,効率を最高価値(出発点)におくかどうかは別問題である。そして結果
としての効率も,もしかすると別問題かもしれない。経済の成熟化が,機械的な「労働」
よりも,心のこもった「仕事」を求めだしていることも忘れてはならない。
 価値の世界から離れつつある企業のあり方,社会のあり方に対して,デザイナーたちの
役割は再び高まっている。もののデザインを通して文化や生活を創出してきた自らの役割
を思い出して,自らを特殊な世界に閉じ込めるのではなく,企業のあり方,社会のあり方
に対して,デザイナーたちはもっと積極的に発言していくべき時期にきている。そうした
中から,おそらくこれまでとは異なる企業変革のメソドロジーが生まれてくるのではない
だろうか。
                                      

1992年頃 「ダイヤモンドデザインマネジメント」掲載