消費者の選択から生活者の選択へ
「くらしのインフォメーション」1993年春号(生命文化保険センター)
佐藤修:潟Rンセプトワークショップ代表
    
●バブル遊びできるほどの「豊かな時代」
 「豊かな時代」である。バブルが生ずるほどに「豊か」な時代である。バブルが限界を超えて弾けたために複合不況などと騒がれているが、弾けたのはバブルであって実体ではない。ボーナスは前年よりも下がったかもしれないが、ちょっと長い目で考えれば,決して下がったわけではない。地価も株価も同様であり、消費も低調だと言われるが結構賑わっている。どこがバブル崩壊だと言いたくなるほど、バブルの余韻はまだ続いている。
 この「豊かさ」を実現した推進主役は企業と消費者だった。次々と商品やサービスを送りだしてくる企業とそれを貪欲に消化する消費者の見事なパートナーシップが、バブルまで出すほどの「豊かさ」を実現した。行政もそれを強力に支援したことは言うまでもない。バブルが崩壊した後も、その面々はなかなか自らのいき方を変えようとはしていない。それどころか、再びのバブル経済を期待している風すら感じられる。
 企業は、消費者を生活者と呼び変えたり、顧客満足に力を入れたりしているが、これまでの事業観を変えたわけではない。消費者も財布の紐を少し締めてはいるが、基本的に消費観が変わったわけではない。「豊かな時代」に戻ることをみんな望んでいる。
 だが、本当に私たちは豊かなのだろうか。そんな疑問が広がりつつあるのも事実である。総理府の調査によれば、バブル崩壊前でさえ、生活実感として豊かさを感じていたのは国民の2割前後でしかなかった。8割近くの人が豊かさを実感していない。現状に満足しないのは人の常だとしても、この数値はいかにも高すぎる。なぜだろうか。どこかに間違いがあるのではないか。私たちが本当に望んでいる「豊かさ」とはいったい何なのか。

●企業による「消費者」づくり
 人間は豊かさを志向して生きている。人々の生活を豊かにしていくことが歴史の進歩である。生活を豊かにする方法はいろいろあるが、産業革命後、人類が選択したシナリオは産業を発展させることだった。そして、その手段として企業が創りだされた。企業は豊かな社会を目指して産業発展に邁進し、見事に成功をおさめたと言っていい。社会は豊かになり、私たちの生活も豊かになった。
 だが、企業の成功は思わぬ方向へと向かいだす。生活を豊かにするための手段だった産業や企業が、次第に目的化し、人々の生活の豊かさよりも、企業の豊かさが優先されるような本末転倒が起こりだした。生活のために企業で働いていた人々が、企業のために生活を犠牲にするようなことが起こりだしたのである。その極致が過労死である。
 豊かさの基準も、人間的な生活指標ではなく貨幣経済的な指標へと変化してきた。豊かさや貧しさが金銭のみで語られるようになり、私たち自身も、いつの間にか「消費者」として行動するようになってしまった。「豊かな社会」になりながらも、多くの人たちが豊かさ実感を持てない理由はここにある。
 高名な経営学者であるドラッカーは、企業の役割は「顧客の創造」であると述べたが、それは企業の勝手な言い分である。有名な話がある。気候のいい南国に二人のセールスマンが靴の市場調査に行った。ところがそこの住民はみんな裸足だった。靴を履く必要がなかったのである。そこで、ひとりは本国にこの国には靴の市場はないと報告した。ところがもうひとりは、無限の靴の市場があると報告した。靴を履く習慣をつくりだせば裸足だからみんな靴を買うと考えたのである。そして、靴を履かない人達に靴を履かせること、つまり顧客(消費者)の創造こそが企業のマーケティングの基本だと言われてきた。
 靴を履くことが豊かさにつながることもあるだろう。だが、それによって失うものもある。靴を履くかどうかで生活は一変し、様々な変化が生ずる。それが人々を豊かにすることもあれば、貧しくすることもある。靴を買えた人(顧客)を豊かにしても、買えなかった人を一層貧しくしてしまうこともある。靴を売ろうとする企業は、おそらくそこまでは考えない。人々のニーズを個別に考え、それに対応していくのが、少なくともこれまでの企業の姿勢だった。消費者を生活者と言い換えても、その姿勢は変わっていない。
 商品が靴であれば、その影響は比較的見えやすい。しかし企業が履かせようとするのは、もちろん靴だけではない。様々な文化を様々な形で履かせようとする。社会が「豊か」になるにつれて、企業が履かせるものは複雑になってくる。最近では「ニーズからウォンツへ」と言われるが、考えようによっては「ニーズの無いもの」すらも「ウォンツ理論」によって押しつけてくる。それが顧客満足につながると豪語する人さえいる。企業の事業観は全く変わっていない。

●求められる事業観、消費観の見直し
 社会は「物不足」から「物余り」へと変質しつつある。ニーズ対応では物は売れなくなってしまった。物不足時代には、「物の豊かな社会」を目指して「良い物を安く社会に提供する」ことが企業の役割だったが、最近のように物があふれるほど豊かになってしまうと、役割の見直しが必要になってくる。
 物不足時代には「物をつくる」ことに価値があった。豊富な自然を原料として、人間生活に役立つ物を創りだすことが「生産活動」として評価されたのである。しかし、物をつくることは、同時に自然を壊すことにほかならない。地球環境が問題になるほど自然が枯渇し、物が余りだした時代においては、同じ活動がむしろ「自然消費(破壊)活動」として捉えられることになる。企業は当然、事業観を変えなければならない。もちろん、生活者も消費観を変えるべきだろう。
 しかし、企業も生活者も、まだこれまでの延長で発想している。物不足から物余りへの環境変化への対応として企業が選択した道は付加価値戦略である。表面的なデザインや特殊な機能付加により、同じ機能の商品を心理的に陳腐化させ、買い替えを勧めたのである。物はますます溢れだすことになる。サービスの分野も例外ではなく、個々人に対応した様々なサービスが事業化されてきた。
 生活者もまた、「自分らしいライフスタイル、センスのいい生活」という大義名分?に支えられて、ますます「消費者」へと向かっている。企業の事業観も生活者の消費観も、これまでの延長を強化させたにすぎない。
 さすがに最近は、過剰機能や過剰サービスは見直され、商品の売れ筋にも変化が見られるが、見直されているのはあくまでも「過剰」である。「過剰」が見直されるのは当然であって、発想が変わったわけではない。
 大切なことは、環境変化に応じた事業観、消費観の見直しである。だが、そうした意識を持つ企業は少ない。相変わらずのシェア意識や拡売志向のもとに、景気回復を期待しているのが大方の企業である。
 確かに、消費者との対話姿勢を強め、生活文化(生活者)研究に取り組む企業も増えている。生活者や社会との対話は企業にとっての最大関心事になりつつある。しかし、いま求められているのは基本的な考え方の問い直しである。それがない限り、せっかくの努力も功を奏すことはないだろう。

●企業の顧客志向の限界
 顧客満足ということを考えてみよう。何をいまさらという気もするが、企業は顧客満足への関心を高めている。企業はお客様あってのものだから、お客様が満足してくれることが、企業の発展につながることは言うまでもない。お客様の視点から企業のあり方を見直すことは望ましいことである。
 だが、必ずしも手放しで歓迎していいわけではない。注意しないと、自社の商品やサービスを購入してくれたお客様の満足を重視するあまり、社会的な視点を失っていくおそれがある。最近の金融証券不祥事も顧客満足の結果だったと言えないこともない。商品やサービスそのものよりも、接客態度やお客様の好みへの個別対応といった付加価値的な部分が重視されすぎて、過剰生産につながるおそれもある。個々の企業や顧客には当面の利益をもたらすとしても、社会全体にとってプラスになるとは限らない。
 たとえば、冬にトマトを食べたいというお客様に対して、エネルギーを多消費する(従って環境を汚染する)温室栽培でトマトを生産すべきかどうか。現実が示しているように、私たちは生産する路線を選んでいる。顧客満足経営は、そうした路線を踏襲するのか、否定するのか。それが事業観や消費観を見直すということである。
コストは高いが自然に優しいエンジンを自動車に搭載すべきかという問題はどうだろうか。社会全体から考えれば、躊躇なく搭載すべきだが、現実はそう簡単ではない。それを採用することによって自動車の価格が10万円上昇してしまう場合、これまでの選択は不採用だった。厳しい価格競争の中では、いかに環境性能が良くても10万円も高くなると買ってもらえないと判断されたからである。だが、生活者(消費者ではない)は本当に環境保全のために10万円負担することを拒否するだろうか。
洒落たデザインマークを付けると、同じTシャツが倍以上の価格でも売れるという現実がある。有機農法による野菜は高くても受け入れられる。自動車業界でも、ちょっとしたデザインや機能付加で価格を高くしているケースは少なくない。
 エンジンのケースは、恩恵が直接自分に戻ってこないから同様には議論できないというかもしれない。しかし、その車を保有することでひとつの自己表現ができれば、Tシャツのデザインマークと同じ話である。自動車メーカーが本気で環境問題を考えているのであれば、10万円高くても環境に優しいエンジンを搭載する努力をするべきだろう。きちんと情報提供するだけでも事態は変わる可能性がある。それをせずに、消費者に迎合しているのが現在の自動車業界である。いや自動車業界に限らず、ほとんどの企業がそのレベルでの顧客満足にとどまっている。

●消費者から生活者へ
 企業は顧客のニーズを発見するために様々な努力をし、次々と新しい商品やサービスを提供してきている。その結果、消費者の選択肢は飛躍的に広がった。企業の対応も良くなってきた。しかし、なぜか充実感や豊かさ実感は得られていない。それは、企業の対応が相変わらず固定的な消費者意識や顧客の枠組みから抜け出ていないからである。
 残念ながら、冬にトマトが食べたいというお客様があれば、それに応じていく企業がほとんどだろう。生活全体を長期的に考えるのではなく、とりあえず履かせる靴を探しているだけと言ってもいい。企業からのあてがいぶちの選択肢は増えているが、所詮私たちには「消費者」の立場しか与えられていない。「消費」からは豊かさ実感や本当の幸せは得られない。小さな満足は得られるが、大きな不満はむしろ蓄積されていく。
私たちはそろそろ消費者から生活者になりたいと考えている。にもかかわらず、企業は相変わらず私たちを消費者と考えている。そこに企業と生活者とのずれがある。消費者でなく生活者になるということは、「消費」から「創造」へと視点を変えることである。商品やサービスは生活を創りあげていくためにあるのだが、現在の商品やサービスの設計はいかにも「消費的」である。生活から切り離されている。
英国の家庭ドキュメントのテレビ番組で、四代にわたって使われたベビーチェアや百年以上使用されているベッドが紹介されていた。それが生活を創りあげていくということであり、豊かさを実感できる基盤である。子供毎に消費してしまうようなベビーチェアを使っていては、生活が蓄積されるはずがない。生活者という言葉を使うのであれば、商品設計や消費態度を根本から見直さなければならない。
 今のままでは、私たちは「小さな満足、大きな不満」から抜け出られない。時代の大きな変わり目の中で、私たちが求めているのは「大きな満足」である。小さな不満があっても、大きな満足が得られれば、豊かさを実感できるはずである。小さな満足はわかりやすく事業化しやすいのだろうが、それだけではいつか大きな不満が爆発しかねない。
 ではどうしたらいいか。その第一歩は、企業が商品や事業に関する情報をもっと積極的に公開していくことである。生活者がもっと積極的に知ろうとすることである。
 企業活動の結果としての商品やサービスだけではなく、そのプロセス(生産過程や準備過程)もしっかりと社会に見せるべきだろう。冬にトマトをつくることが、どれだけの犠牲を必要としているのかがわかれば、冬のトマトを消費する意味が理解されるだろう。
 消費した結果についての情報ももっと知っておく必要がある。高いエンジンが従来のエンジンとどれだけ違うかを明確に示していくためには、従来のものがいかに環境に悪影響を与えているか(それは自社商品の欠点を認めることでもあるが、欠点のない商品はありえない)を示す必要がある。それがきちんと理解されれば、10万円を負担する生活者は決して少なくないだろう。
 私たちも、そろそろ個別の商品やサービスだけで価値評価する消費者意識を捨てて、その前後の事情について、もっと関心を高めなければならない。同時に、生活者としての大きな希望(ニーズやウォンツではない)をはっきりと企業に伝えることも必要である。
 さらに、商品やサービスを供給している企業そのもののあり方への関心も持つべきだろう。既に米国では、商品購入のひとつの判断基準にするための企業評価が市民(生活者)によって行われ始めている(「より良い世界のためのショッピングガイド」)。
 共生を語る企業が増えているが、共生の出発点は情報の共有である。それが企業と社会との信頼感につながっていく。企業も社会も、当然のことながら同じ生活者で構成されている。企業人も消費者も生活者なのである。その生活者たちが情報を共有し、自らの希望をしっかりと意識し行動しはじめれば、企業と社会の齟齬は解消されるに違いない。
 「消費者」などという実体のない経済モデルは、そろそろ消えてもらわねばならない。                     

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