企業変革のためのコミュニケーション戦略

「広報・コミュニケーション戦略」(都市文化社)から転載

 

●コミュニケーションの目的は変革

 コミュニケーションとは自らが変わることである。自らが変わることによって、相手との関係を変え、相手を変え、状況を変えていくことである。自らが変わらずして、どうして相手や状況を変えることができるだろうか。正統なコミュニケーション論からすれば異論も多かろうが、これが本論の基本的姿勢である。従ってコーポレート・コミュニケーションの目的は企業変革ということになる。

 コミュニケーションという言葉はラテン語の「Commnicatus (分かち持つ)」を語源とする。つまり「共通の世界を持つ」ことと言っていい。どうしたら共通の世界(価値観)を持つことができるか。方法は三つある。まず相手を変えること。そして自分が変わること。三つ目は双方が変わることである。

 こうした変化を起こすために情報活動が必要になる。「情報伝達」がコミュニケーションと同義的に使われるのはそのためだが、大切なのは情報伝達ではない。それにより何らかの変化(結果としての不変化も含め)が起こり、コミュニケーション当事者の世界の共有部分が増えることに意味がある。

 企業にとってのコミュニケーション問題を考える場合、三つの変化のどれが現実的だろうか。これまでの議論の多くは相手を変化させることに主眼があった。

 「フォーチュン」誌主催のコーポレート・コミュニケーション・セミナーの報告書によれば、コーポレート・コミュニケーションは「広告やPRといった既存のコミュニケーション手段も含めて、全社的な視点から企業の心を社会に正しく理解してもらうことを目的とする」とされている。情報発信により企業の意図を正確に知ってもらい、相手(社会)の意識を変えていくことがコーポレート・コミュニケーション戦略だったわけである。

 企業広報の父アイヴィ・リーは「広報はつまるところフランクネス」と述べているが、この「企業の心」もそうしたニュアンスのものだろう。

 企業を社会が正しく知るためには、企業に意図的な隠蔽があってはならない。しかし現実には常にフランクに自らを見せている企業などない。広報戦略やコーポレート・コミュニケーション戦略が「戦略」である以上、そこにはある「意図」が入っている。結局は、「企業にとって意図的に(都合よく)自らを社会に理解させる」ことになる。だが、それで果たして相手(社会)を変えられるのか。

 

●膨大なコミュニケーション活動は不可避か

 情報発信によって誤解を解くこと(もしくはさせること)はできるだろうし、知識を与えることもできるだろう。しかし、それがそのまま相手の意識や行動を変えることにはつながらない。第一、企業が伝えたいことと社会が知りたいこととは必ずしも一致しない。いや、むしろ違っていることが多い。

 企業と社会との関係に限らない。会社と社員のコミュニケーションにおいても同様である。発信した情報が相手の耳に素直に入っていくことはむしろ少ない。しかも相手を変えようなどという意識があれば、相手は耳を閉ざしがちになる。だから、「コミュニケーション」のために膨大な情報発信や働きかけを続けなければならなくなる。これが現代のコミュニケーション論の現実である。

 量や規模を追求してきた経済論理が、ここでも支配している。伝える価値のないことや相手にとって知りたくもないことが、着飾った言葉や表現で企業から発せられるうちに、社会は情報感度を鈍らせていく。企業もますます刺激的な情報発信を増大させなければならなくなり、そのうちに次第に情報内容は実態から離れていく。

 そもそも伝える価値のないことが多すぎるのだ。相手が知りたくもないことを伝えるのがコミュニケーションなのだろうか。そう錯覚させるほど、コミュニケーション論議は技術論に陥っている。しかも企業や専門家だけではなく、社会一般がそうなっている。最近の新聞広告やテレビCMの異常さに、なぜみんな気がつかないのだろうか。あれほどの膨大なエネルギーと費用を注ぎ込まなければならない「コミュニケーション」とは一体何なのか。本当にコミュニケーションされているのだろうか。送り手も受け手も、完全に感覚を麻痺させている。

 エリマキトカゲのテレビ・コマーシャルが話題になったことがある。広告関係者の間では高い評価を受けたようだが、それで何かが変わったのだろうか。広告主は何を得たのだろうか。コミュニケーションの目的はどこかに行ってしまい、ただコミュニケーション行動だけが目立ってしまう。そうした事例が多すぎる。手段であるべき広告が目的化してしまっている。

 手段の目的化は分業発想の現代社会の特徴だが、そろそろ見直す必要がある。コミュニケーションとは伝達する情報の量を増やすことではない。ましてや「広告アート」を創造することでもない。コミュニケーション不在の広告や情報発信に、企業がなぜこれほどまでに費用をかけるのか理解できない。

 

●社会は自らが変わる方向に変わっていく

 企業のように多くの人や組織と関わる場合、情報発信によって相手を変えることはとりわけ至難である。価値観も多様化しているし、相手は同種の情報で感覚を麻痺させている。企業の好む「効率性」の点でも問題がある。膨大な費用をかけても、それに引き合う変化を起こせないケースが増えている。

 ではどうすればいいのか。答は簡単である。自らが変わればいいのである。自らが変われば、当然のことながら相手(社会)との関係は変化する。その過程で相手は変わっていくだろう。相手が変わらなければ、さらに自らが変わればいい。それがコーポレート・コミュニケーションの出発点である。

 知りたくもないことを相手に無理に伝えようとするのではなく、自らが知りたいことを相手との交流の中で見つければいい。情報発信はそのための手段である。そして、自らが変わることが最大の情報になる。そう考えれば、広告や広報の仕方は見直す必要がある。コミュニケーション・メディアも、今のようなマスメディア偏重ではなくなるだろう。

 もちろん、ただ変わればいいわけではない。変わり方は重要である。国際政治の世界でのふたつの体験が参考になる。

 冷戦時代の米国とソ連の姿勢は核抑止理論による軍拡だった。自らの核戦力を増強することにより相手の核兵器使用を封じ込めていく発想(エスカレーション理論)は、結果としては相手の核兵力増強を引き起こし、両国は際限のない軍拡競争に陥った。大規模な戦争は回避できたが、そこから生まれたものは少ない。最近の動きは、逆に一方的削減(オスグッド理論)による軍縮である。まず自らが軍縮することにより相手からの信頼を高め、相手の軍縮を引き起こす発想である。

 いずれも自らの変化(軍拡、軍縮)が相手の変化を引き起こすわけだが、その変化の方向は全く異なる。そこから出てくる結果も大きく違う。自らの変化の方向が相手や状況の変化の方向を決めるのである。世界は自らが変わる方向に変化していくものなのだ。

 

●企業変革のふたつのケース

 1990年、自動車会社のボルボが新聞の全面広告で『私たちの製品は、公害と、騒音と、廃棄物を生みだしています』と発表して話題になったが、これは企業が自己変革した一例である。企業広告と言えば、自社のいいところを社会に強調するのが常識だった。それをボルボはわざわざお金をかけて、自社製品のマイナス面を大々的に社会にアピールしたのである。自社の製品の欠点をこれほど明確に新聞紙上で宣言する勇気を持つ企業はめずらしい。一歩間違えば、企業への批判や不買運動も起こりかねなかった。

 だがボルボは、もはや自動車のマイナス面はメーカーだけで議論すべきではなく、社会全体の問題として取り組むべきだと判断し、マイナス面の積極的開示に踏み切ったのである。自動車メーカーが情報を公開して社会と共に考え始めたことの意味は大きい。

 対照的なケースは米国で行われた「オゾン戦争」である。1989年、当時世界最大のフロンメーカーだったデュポンは、フロンガスによるオゾン層の破壊を認め、フロン事業からの撤退を宣言した。同社のフロン事業は年商1000億円以上だったから、これもまた勇気ある決断であった。デュポンの環境主義を高く評価する人もいる。だが、現実をよく見ていくといくつかの疑問が出てくる。

 フロンガスがオゾン層を破壊しているのではないかという疑問は、既に1970年代初めに提起されていた。そうした批判に対してデュポンは企業内の科学者や技術者を動員してアンチ・キャンペーンを展開した。「フロンはオゾン層を破壊していない。それは科学的に何ら実証されていない」というのがデュポンの反応だった。しかし、事態はデュポンの思う通りにはいかず、次第に同社は追いつめられていく。そのため同社の姿勢も、「たとえフロンによるオゾン層破壊があるとしても、フロンの効用はそれ以上に大きい。今すぐにフロン製造を禁ずべきではない」と徐々に後退していった。同社がフロンからの撤退を決断するまでには、こうしたオゾン戦争が10年以上にわたって行われていたのである。

 デュポンに積極的な悪意があったわけではない。しかし最大のフロンメーカーとして、フロンに関する情報を同社が最も多く保有していたことは間違いない。もし当初から、問題提起した科学者たちと同じ視点に立って情報を公開して前向きに取り組んでいたら、オゾン戦争はもっと早く終結し、同社も社会も被害を少なく抑えることができただろう。

 ボルボの決断も決して早かったわけではない。自動車のマイナス面が話題になってからの期間はオゾン戦争より長い。大切なことは、デュポンは対話を拒否し、ボルボは対話を志向した点である。換言すれば、デュポンは外部に変革させられたのであり、ボルボは自己変革しようとしている。その分かれ目はコミュニケーション姿勢の有無である。

 コミュニケーションを伴わない変革には不安が残る。フロン事業撤退に際し、ウラード会長は「デュポンが環境面で世界的に優れた企業であるという印象を世界の人々に持ってもらうためには」たとえ巨額の利益を犠牲にしてもフロン撤退は「必要な措置」だったと発言している。彼の関心は「企業イメージ」だったのである。自己変革とはほど遠い。

 

●企業変革は時代の要請

 企業にとってコミュニケーションの自己変革機能が重要になってきていることの背景には、時代が大きな変わり目にあるという事実がある。社会における企業の意味が改めて問われだしているのだ。

 たとえば「物不足」から「物余り」ヘという状況変化がある。そもそも企業というのは、物不足を前提として設計されているが、現在のように物があり余る豊かな状況の中では、企業の役割や構造を根本から考え直す必要がある。しかも「企業社会」と言われるほど企業のプレゼンスは大きくなっている。企業の行動が社会の動向を決めかねない。

 企業はもはや社会の中での一部の機能(生産や流通)を担当する経済機関と割り切っているわけにはいかなくなった。「コーポレート・シチズンシップ」という言葉が使われだしたように、企業も社会の一員として、社会性を高めなければならなくなっている。

 企業の活動舞台が広がっていることも見落としてはならない。グローバリゼーションの進展は、日本企業に対して異質な文化との触れ合いの場を広げている。文化や立場が違えば、ものごとの意味は変わってくる。日本企業が「社会的」と思っていることが、現地では「反社会的」と受け取られることも少なくない。自分の考えを押しつけることがコミュニケーションではないことの典型的な例がここにある。これも企業が自己変革しなければならない要因のひとつになっている。

 企業変革は時代の要請なのである。変革こそが企業存続の戦略課題といってもいい。事実、そうした認識のもとに経営革新や意識変革に取り組む企業が増えている。だが、企業変革は内部だけでは起こらない。変革のエネルギーは外部との接触によって高められる。逆に外部と断絶されては、企業変革は実現しないだろう。コーポレート・コミュニケーションの目的を企業変革に置くことの意味がそこにある。企業は、そうした意識で積極的に外部と触れ合っていかねばならない。

 外部とのコミュニケーション活動を強化する企業は増えている。コーポレート・コミュニケーション戦略も経営課題にあがりつつある。フィランソロピー(社会貢献)やメセナ(文化支援)という新しいコミュニケーション活動への関心も高まっている。だが、共通して見られるのは、やはり「他者を変える姿勢」である。経営者は社員の意識を変えようと躍起になり、企業全体は情報発信を通して企業イメージを高めようと努力している。

 広聴意識も出てきているが、それも結局は相手を変えるための情報収集という意味あいが強い。フィランソロピー活動もメセナ活動も、自己変革とは切り離されたところで行われるケースが多い。コミュニケーションとは伝達であるという意識からなかなか抜け出られないのが企業の実態である。それでは社会からのグッドウィルを得ることはできないし、社員のエネルギーを結集することも難しい。ましてや時代の変わり目を乗り切るための自己変革が達成できるとは思えない。

 

●インナー・コミュニケーションと企業変革

 企業変革とコーポレート・コミュニケーションとの関係は、インナー・コミュニケーションの問題として語られることが多い。社員の意識変革や活性化のために社内コミュニケーションが重視され始めたのである。企業変革は社員と無関係には実現しないから、これは当然のことだろう。だが、ここにも落とし穴がある。変革や活性化は社内のコミュニケーションの問題なのかということである。新しい企業理念を創り、毎朝社員が唱和しても、意識変革ができるわけではないし、内部的な刺激が活性化につながるものでもない。

 変革や活性化は常に異質との触れ合いによってもたらされる。それも自発的なものでなければ継続しないだろう。最近の企業事例を見ると、管理された活性化や意識変革が多すぎる。そもそもコミュニケーション戦略の目的が自己変革であるならば、インナーとかアウターとか分けること自体おかしなことである。意識変革はインナー・コミュニケーションだけで実現できるはずがない。トップの意向に同調させることはできるかもしれないが、それはいま求められている企業変革とは次元を異にするだろう。

 広告や企業報道を最も真剣に読むのは、その企業の社員である。企業イメージを最も気にするのも社員である。社員に情報を伝えたければ、むしろ外部のメディアを活用したほうがいいくらいである。逆に外部に企業の実態を最も正確に伝えるのは社員一人ひとりの表情や行動である。どんな高邁な理念を宣言していても、一人の社員の具体的行動のほうが強いインパクトを与える。コミュニケーションにインナーもアウターもないのである。企業変革への関心の高まりが、コミュニケーション戦略の内向化をもたらすようであってはならない。

 企業そのもののあり方も含めて、企業はいま変革を迫られている。単に社内でお茶を濁す程度の変革ではない。社会の中でしっかりと自らの位置を見直し、それに沿って意識や行動を変革していかなければならない。コミュニケーションの持つ自己変革機能をいかに活かしていくかは、これからの企業にとって重要な課題である。

 

●自らの客観的把握が自己変革の出発点

 企業変革が時代の要請だとしても、それはそう簡単なことではない。社員にいくら「意識を変えなければならない」と言い続けても、それだけで社員が意識を変えるわけではない。制度や組織を変えても、企業の文化や行動はなかなか変わらない。そんなことで変革できるのならば、企業変革はこれほど話題にはならないだろう。

 ではどうするか。自己変革はまず自らを客観的に評価することから始まる。そのためには外部の広い世界との触れ合いが不可欠である。井の中の蛙が自己変革できるわけがない。外の世界を知ろうともせずに自己変革に取り組む企業も少なくないが、その結果は見えている。江戸末期の藩政改革や明治維新前後の組織の対応から学ぶべきことは多い。

 触れる外部の世界は広ければ広いほどよい。広いほど自らの相対的位置づけは客観化され、新しい方向と具体的な方法がより明確になってくる。広い世界との触れ合いが、企業の自己変革の第一歩といっていい。

 ところで企業が変わるということはどういうことなのだろうか。企業が広い世界と触れ合うとはどういうことなのか。このことは必ずしも明確ではない。個人が異質の世界との触れ合いによって生き方を変えるほど単純なことではない。企業のアイデンティティ(CI)が語られているが、それはあくまでもひとつの擬制であって、企業という主体が人間とは別に存在するわけではない。現実に企業を構成しているのは個々の人間であり、企業活動はそうした一人ひとりの社員の意識と行動の集積にほかならない。

 企業も、個人と同じように「社格」や「社徳」を持つべきだという主張もあるが、その時の「企業とは何か」は曖昧である。あまりにも安直に企業を人間に擬制しすぎている。その結果、擬制であったはずの企業が実体としての主体性を持ち始め、「会社のために」という理由で自らの行動を正当化する企業人も少なくない。幻の企業実体を意識して、必要以上に自己規制する企業人もいれば、必要以上に反発する生活者もいる。いずれも、企業の実体はつまるところ一人ひとりの企業人であり、しかも企業人は生活者の一側面でしかないという当然の事実を忘れている。

 企業変革を目指すのであれば、変革すべき企業実体をしっかりと確認しなければならない。その点を曖昧にした取り組みは「企業変革ごっこ」になりかねない。もし、企業が人間集団であるとするならば、企業が変わるとは社員の意識や行動が変わることであり、企業が広い世界と触れ合うとは社員が自らの世界を広げるということになる。

 

●企業変革の難しさ

 企業の変革を考える場合、個人とは異なるふたつの難しさがある。

 ひとつは、企業の持つホメオスタティック(均衡維持的)な組織構造である。しかも、それは生体のようなホリスティック(全体構造的)な仕組みではなく要素構築的であり、「生きていないから」、一度構築されると状況が変わっても融通を効かせることが難しい。従って環境の変化に対して硬直的に反発しがちであり、時代の変わり目にはむしろ組織存続の阻害要因になりかねない。いわゆる官僚化や大企業病である。

 社員が外部の研修などでせっかく学んできた新しい知恵を企業内では活かせずに埋もらせてしまうことも少なくない。新しい情報も死蔵されがちである。要素構築的な制度の限界がそこにある。

 もうひとつの難点は、企業は複数の人間の集合だということである。従業員が個人的な価値観を持たない単なる「労働力」であるならば、トップが右を向けと言ったり制度をつくったりすればよかったかもしれないが、これからはそうではない。個々人の意識や価値観が企業活動にとって意味を強めており、企業変革もまた、社員一人ひとりの意識まで視野に入れなければならなくなってきている。

 外部の世界との触れ合いといっても、全員を同じ状況に置くことはできない。それぞれが個人としての価値観を持続したまま、ある方向に意識を変えていくことは至難なことである。しかし、それができなければ、制度や組織をいくら変えても現実の行動として根づくことはなく、企業変革は実現しない。

 企業の場合、組織的な仕組みの変化と社員個々人の意識の変化が相まって初めて変革が実現する。そこに企業変革の難しさがある。

 

●企業のコミュニケーション体質化

 広い世界との触れ合いや企業内部の社員同士の交流は、まさにコーポレート・コミュニケーション活動の課題である。変革を目指す企業がコミュニケーション活動を重視するのは重要なことだが、陥りやすい落とし穴がふたつある。

 ひとつはコミュニケーション部門の充実に関連している。広報部をつくったために外部との情報受発信やトップへの情報提供が過度に一元化され、個々の社員が外部やトップと触れ合う機会が少なくなったり、外部との情報のやりとりの責任がすべて広報部に転嫁されるようになってしまっては逆効果である。広報部員が、外の波をかぶるのは自分の役割とばかり頑張りすぎておかしな結果を生んだケースも少なくない。

 広報部門が外部に対する防波堤と考えられた時代もあったが、企業変革の視点から考えれば、むしろ社員一人ひとりをできるだけ外部に触れさせることが広報部門の仕事になる。役割認識を間違えてはならない。コミュニケーション部門を充実するということは、コミュニケーション活動を専門化するためではなく、企業全体のコミュニケーション活動を活発にするためなのだ。そのために、硬直的な制度や仕組みを解体することもコミュニケーション部門の課題である。

 コミュニケーション活動にとってもうひとつ留意すべきことがある。コミュニケーションできる主体があるかどうかである。

 人は自分が理解できることや関心を持っていることしか見聞できないものだ。いかに素晴らしい事実に触れても、理解や関心を超えることであれば何の刺激にもならない。海外に出ていった企業が陥る失敗のひとつがここにある。日本人の価値観で現地の人たちに企業文化を説明したり、市場分析を行ったりしても、コミュニケーションはなかなか成立しない。必ずといっていいほど見落としがある。異質の文化とのコミュニケーションは難しい。このことは海外進出の場合に限らない。程度の差はあるが、コミュニケーションに常につきまとう問題である。

 最近、広報部門や商品開発部門で女性の活躍が目覚ましいが、それは女性の生活感覚と無縁ではない。いかに優れた市場分析報告書を読んでも、生活感覚が希薄では示唆を得ることは難しい。企業に埋没しすぎた男性たちには社会も生活も見えにくくなっているおそれがある。乳幼児向け商品のメーカーであるコンビが商品開発のために幼い子を持つ母親たちでチームをつくって成果を上げているが、コミュニケーションのためには相手の声を聞き分ける耳がなければならない。

 企業が社会としっかりしたコミュニケーションを行っていくためには、企業そのものを異質な世界とコミュニケーションできる体質に変えていかなければならない。そのためには組織や制度だけではなく、社員一人ひとりをしっかりしたコミュニケーション主体に育てていくことが不可欠である。それができれば、企業は自ずとコミュニケーション体質化していく。コミュニケーション戦略は、社員の教育研修にもつながっている。

 

●異質な世界との触れ合いの場づくり

 日本生産性本部が実施している「6社交流研修」は、新しい研修スタイルとして注目される。異業種6社からそれぞれ3名ずつ合計18名の企業人が参加する2泊3日の合宿研修だが、プログラムのほとんどが他社の社員との議論である。コーディネーターの役割は初めて顔を合わせた参加者が本音で議論できるような状況をつくるために問題提起をしたり、議論の節回しをしたりするだけである。テーマについても大きな方向づけはあるが、メンバー次第で決まってくる。家族や子供の問題が語られることも少なくない。

 最初から議論がスムーズに進むわけではない。たとえば「ソフト化」や「情報化」といったよく使われる言葉でさえも、企業によって、また職務によって、その意味が微妙に異なっていることに、まずそれぞれが気づくことになる。参加するまでは当然と思っていたことが、自分の会社の特殊な文化であることにも気づいていく。自社や自分の置かれている状況を相対化できれば、議論はスムーズになりコミュニケーションが成立していく。

 講師が何かを教示するわけではない。全員が相互にコミュニケーションしあいながら、自らを変革させていく。3日という短期間であるにもかかわらず、その収穫は大きなものがあるようだ。参加者や派遣企業の評判は高い。少なくとも、参加者の視野は広がりコミュニケーション能力は高まっている。

 異質との触れ合いの企画は社内報の分野にも登場している。社内報と言えば、ふつう社内情報が中心だが、富士ゼロックスの社内報「SASUGA」は全く異なっている。

 同社は数年前から新しい働き方を模索するNew Work Wayプロジェクトを展開しているが、その一環として他社の個性的な企業人(さすがの企業人)の生き様を紹介する目的で全管理者に配布されているのが「SASUGA」である。毎号3〜4名のさすがの企業人が登場して、ゼロックス社員に刺激を与えている。社内の人たちが主役の社内報とはひと味違うスタイルが、社内報の役割に新しい地平を開きつつある。

 「SASUGA」に登場した企業人たちが企業の枠を超えて交流を開始すれば、さらに面白い展開が実現するだろう。企業とは別の分野で活躍する人たちが主役を演ずるスタイルも考えられる。社内報もそろそろ「社内」的視野や「企業」情報志向を捨てて、広い世界との触れ合いを演出する時期に来ている。

 

●社会との触れ合いが社員を変える

 最近広まっているボランティア休暇やリフレッシュ休暇も、社員に異質な世界との触れ合いをもたらす効果がある。最長2年間の休職を認める企業もある。つい数年前までは、たとえ善意のボランティア活動であろうと企業外での活動はどちらかといえば歓迎されなかった。それが、最近はむしろ奨励する雰囲気と支援する制度ができている。大きな変化と言っていいが、それがまた企業の変革を促すことにつながっている。

 休暇制度を利用して新しい世界に触れた人は、おそらく例外なく視野や発想を広げる。行動範囲も広がるに違いない。企業の変革につながっていくことは間違いない。休暇内の行動自体も、直接的ではないが、その人の所属する企業と社会との対話につながっているだろう。ボランティア休暇の持つコミュニケーション効果(自己変革効果)はもっと注目されていい。

 フィランソロピー活動やメセナ活動に企業の関心が向けられているが、これらもまた異質との触れ合いの場づくりという意味を持っている。企業イメージの向上とか利益の社会還元という面もあるだろうが、それ以上に企業変革につながるコミュニケーション効果があることに企業は気づかなければならない。 最近、業績が悪化したからという理由で関心を弱めている企業もあるようだが、問題の捉え方が間違っている。フィランソロピーやメセナを企業変革につながる戦略的なコミュニケーション活動と捉えれば、業績との因果関係は逆転する。つまり、業績がいいから力を入れるのではなく、業績を高めるためにこそ必要な活動なのである。

 日産労連の組合員が一人月額100円の会費を出して運営している福祉基金では、活動のひとつとして身障者たちに観劇を楽しんでもらうプログラムを持っている。

 その活動にボランティア参加した組合員のひとりが「身障者をバスから会場までおぶっていく時は抵抗もありとても重かったが、帰りはとても軽かった」と述べている。身障者たちとの共有体験が彼の世界を大きく広げたのである。それは彼の財産になると共に、組織(この場合は組合だが)の財産にもなるだろう。視野の広がりは必ず事業に反映されていく。企業が社会活動や文化支援に関わっていくことの最大の意味はここにある。

 もしそうであれば、寄付やスタッフワークによるフィランソロピー活動やメセナ活動は適切とは言いがたい。もちろんそれはそれで意味があるだろうが、社員一人ひとりが直接的に関われる仕組みが考えられなければならない。フィランソロピーやメセナを通して、社員の視野が広がり、企業のコミュニカビリティ(コミュニケーション能力)が高まることが企業変革につながっていくのである。

 

●社会人として素直に発言できる企業文化

 外部の世界と触れ合うことによって、社員のコミュニカビリティが高まったとして、もうひとつ問題がある。社員が思ったことを企業内部で自由に発言できるかどうかである。自由に発言でき議論できる企業文化がなければ、せっかくの外部とのコミュニケーション活動も意味がない。企業のコミュニケーション体質化のもうひとつの鍵がここにある。

 発言の自由度を評価する簡単な基準がある。企業が抱える問題、最近の例でいえば企業不祥事や過労死について、同窓会で語ることと企業内の会議で語ることとの一致度である。あるいは家族との会話と社内での会話の一致度である。社内で議論すること自体がタブーであるようなテーマがある企業も、自由度は低いと考えていいだろう。

 社内での自由な議論を促進するために、日本たばこ産業(JT)が取り組んでいるいくつかの活動は示唆に富む。たとえば“JTミドルフォーラム”という企画では全国から社員が集まって(休日に、しかも費用まで自己負担して)、JTはいい会社かどうかをディベートするのである。ミドルとヤングのディベートもある。“JTいきいきメッセージ”という企画ではイベント風に社員が会社や仲間たちにメッセージを送る。

 いずれも限られた場ではあるが、非常に自由闊達にコミュニケーションが行われている。こうした活動の積み重ねが、企業のコミュニケーション体質化を実現し、企業変革を実現していくのである。

 

●広くコミュニケーション戦略を捉える

 コミュニケーション戦略にしては議論を広げすぎたかもしれない。しかし、コミュニケーションは単に情報を受発信することではない。企業としてのコミュニカビリティを高め、企業をコミュニケーション体質化(社会に開かれた自由闊達なコミュニケーション風土づくり)することが、コーポレート・コミュニケーション戦略の基本なのである。

 かなり昔の話だが、某家電メーカーが欠陥商品への対応が遅れ惨事を起こしたことがある。その時、トップが「もっと早く情報が私のところに伝わっていたら、事態を食い止められたのに」と発言したが、同じような発言が最近の金融・証券不祥事でも頻発した。事態はほとんど変化していない。

 欠陥商品も今回の不祥事も確かに問題だが、それ以上に問題なのは、そうした事件を生んだ企業体質である。それらの企業が、もしコミュニケーション体質化していたら、おそらく事件は起こらなかっただろう。逆にその認識がない限り、いかに善後策を講じても事件は形を変えて繰り返されることになる。

 最近の企業不祥事は企業と社会がコミュニケーションするいい契機だった。企業(金融・証券業界に限らない)が自らをコミュニケーション体質化するいい機会でもあった。しかし、残念ながら、そうした意識で自らのコミュニケーション体質度を問い直している企業は少ないように思えてならない。

 

●企業の社会観の見直し

 企業不祥事のせいではないだろうが、最近、企業が愛(フィランソロピー)を語り出した。企業と愛、これまでの感覚ではなかなか結びつかない言葉である。そういえば、数年前から盛んに議論されているのが、企業文化や企業の文化活動だが、企業と文化も最初は違和感のある結びつきだった。

 一方で企業不祥事や過労死があり、他方で文化や愛が語られる。どこかおかしい気もするが、これらはいずれも企業がこれまでのままではやっていけなくなっていること、つまり企業自らが自己変革しなければならない時代になっていることの証でもある。

 企業の存在がここまで大きくなると、企業は勝手な行動をしているわけにはいかなくなってきた。自らの所有する経営資源であろうと勝手に処分することが許されなくなっている。使い方が社会に大きな影響を与えるからである。そのことを忘れて、個々の企業が勝手な行動をとった結果が最近のバブル経済だった。それは企業自身にとっても好ましい結果とはならなかった。

 社会的に大きな地位を占めることになった企業は、自由に行動する権利を得たのではなく、社会に対する責任を負ったのである。そこを誤解している企業経営者や企業人は少なくない。企業は社会的影響や社会的意味をしっかりと認識して行動していかなければならなくなっている。

 しかし、これまでの企業構造や企業論理からは、そうした社会的な視点は出てきにくい。その理由は企業の社会観に関係している。企業はこれまで社会を市場と考えてきた。製品やサービスを買ってくれる製品市場やサービス市場、活動に必要な労働力や資金を入手する労働市場、金融市場。それが企業の社会観だった。したがって、企業の関心は「市場である社会からいかに多くのものをとるか」だった。特に近年の企業行動にはこうした姿勢が強く感じられる。だが、そろそろそうした発想は限界に来ている。

 企業が社会を市場と捉える限り、社会もまた企業からいかに多くを取れるかを考えるのは当然である。フィランソロピーやメセナへの関心が高まる中で、企業への寄付要請は急増しているようだが、それは企業の社会観の裏返しにほかならない。そうした関係にある限り、両者にはコミュニケーションは成立しようがない。形の上での関わりはできるかもしれないが、双方にとってあまり実りあるものとはならないだろう。

         

●社会がおかしくなって困るのは企業

 社会は市場であると同時に、企業の存立基盤でもある。社会がおかしくなって一番困るのは企業なのだ。この当然のことを企業は忘れがちである。

 米国企業は、30年程前から社会活動を活発化させているが、その背景には米国社会の荒廃がある。貧困家庭やホームレスの増加、若者たちの基礎学力低下などが報告されているが、そうしたことは市場の縮小や人材不足となって、企業に直接的に影響を与えている。米国企業の競争力低下の重要な原因にもなっている。米国企業のフィランソロピー活動から学ぶべきことは、その方法だけではない。企業が社会を粗末に扱うとどういうことになるかという教訓こそが重要である。

 よく言われるように、日本の農業の理念は「作物をつくるのではなく土をつくる」ことだった。良い土壌をつくっていけば、土が自然と作物を育ててくれるという発想であり、土からいかに取れるかではなく、土に何をしてやれるかが、日本農業の原点だった。同じことが日本の商人道でも説かれていた。社会のためになることの結果として利益を社会から与えてもらえるという考えである。こうした「土づくり」や「社会へのお役立ち」思想を改めて思い起こす必要がある。

 社会が豊かになれば、当然、そこに基盤を置く企業は発展していく。逆に社会が荒廃してくれば企業もまた衰退せざるを得ない。企業は社会の外にいるわけではない。

 社会は企業を支えてくれる基盤である。そうであれば、企業は市場とのコミュニケーションから社会とのコミュニケーションに関係を変えていく必要がある。「社会から何がとれるか」ではなく「社会に何ができるのか」が、これからの企業の姿勢でなければならない。「市場との共生」ではなく、「社会の中での共生」が求められている。

 現在の社会は市場としてはいいかもしれない。だが、様々な問題を抱えていることも事実である。世界的な視野で考えれば、貧困問題や環境問題など、問題は多岐にわたっている。企業の存在が大きくなるにつれて、そうした問題が企業の存続に重要な意味を持ち始めてきた。存立基盤としての社会がどうなっていくかが企業の存続を決めていくとすれば、その社会にどう役立っていくかは、企業にとっての重要な課題である。

 目先の経済問題にのみ関心を持つのではなく、長期的視点で社会の問題と触れ合っていくことが不可避になってきている。

 

●企業の社会貢献をどう考えるか

 企業が文化や愛を語りだし、福祉や文化の問題に関心を持ち出したことは、まさに時代の変わり目を感じさせる。コーポレート・シチズンシップを企業理念にとりいれる企業も現れているし、企業市民室を新設して具体的な活動に取り組み始めた企業もある。利益の一部を社会還元する1%クラブや企業メセナ協議会も設立された。

 いずれも本業の経済活動だけではなく、もっと広い視点から社会の問題に関わっていこうというものである。好ましい動きではあるが、留意すべき点もいくつかある。特に、その背後に企業にとって都合の良いように社会を変えていこうという意識がないかどうかという点が重要である。

 土づくりに取り組んできた日本の農業が、土壌改良のために農薬を大量投入して結局は土を殺してしまったことを忘れてはならない。一時的な収量増加は実現したが、長い目で見れば地力を衰えさせ、農業の存立基盤を壊したのである。企業にとっての土壌が社会であるならば、土壌である社会を壊してしまうことは絶対に避けなければならない。最近のメセナやフィランソロピーの動きには、そうした危惧がないわけではない。

 企業に都合良いように社会を変えていくための活動は社会貢献とは言えないが、そこまで明確な意図がないとしても、注意しないと結果的にそうなることもある。企業や経済の論理は福祉や文化の論理とは桁違いに強力だから、思わぬ結果をもたらすことも少なくない。文化支援のつもりが、文化の世界に経済主義を持ちこむことによっておかしなものにしてしまったケースもある。極端な場合には文化消費になってしまうことすらある。異質の世界とのコミュニケーションは難しい。

 それでは企業の社会貢献活動とは何なのか。それは難しい問題だが、やや安直に語られすぎている現在の風潮には疑問がある。豊かになったからといって、企業が社会に施しをしたり、現代のメディチ家になることが正当化されるわけではない。ましてや、寄付を通して福祉や教育や文化のあり方に意図的な指図をすることは許されるべきではない。

 行政に代わって富の再配分機能を果たすことも適切ではないだろう。企業の構造、たとえば意思決定システムはそうしたことを前提にして構築されてはいないからである。

 

●社会貢献活動で企業を変える

 寄付をすることによって、福祉や芸術の世界を変えていくことが重要なのではない。企業が蓄積してきた効率的管理手法を持ち込むことも意味はあるだろうが、それも本質的な問題ではない。むしろ、注意しないと歪みを起こすことさえある。

 重要なことは、経済と異質な世界に関わることによって、企業自らが変化することなのだ。例えば、数字主義や効率主義、分業発想、画一的な評価基準など、これまで企業の強さの源であった様々な考え方を相対化させていくことである。強いことは悪いことではないが、強すぎることには問題がある。

 異質との触れ合いは、企業に多様な価値観や柔らかさを持ち込むことになる。そして、企業が変わっていくことで社会のあり方を変え、福祉や芸術の位置づけや扱われ方が変わっていく。迂遠のようだが、それこそが問題の本質的な解決につながっていく。最近の風潮は、企業も社会もあまりに直接的短期的な利益を追いすぎている。

 社会問題の多くは企業活動(個別企業の活動というわけではない)に一因があることを自覚することから、企業の社会貢献活動は出発すべきである。身障者問題を例にとれば、薬害や食品添加物、交通事故や作業事故など、企業活動が原因となっているケースは決して少なくない。福祉問題も教育問題も、あるいは文化の歪みも、どこかで必ずといっていいほど企業のあり方とつながっている。

 企業は社会に大きな効用や価値を提供しているが、その反面でマイナスの価値も排出しているのである。企業の社会貢献は、常にそれとの関連で考えられなければならない。

 もちろん、企業だけの責任というわけではない。それは社会の選んだ選択だったのだから、社会の問題である。

 だが、そうした問題を本当に解決していくためには、原因の一端となっている企業のあり方を変える必要がある。その第一歩は、そうした世界のことを企業が知ることだろう。そして、企業活動に際して、そうした世界のことに思いを馳せることである。それが企業の社会性を高め、健全な社会づくりにつながっていく。同時に、社会における企業の役割を確実なものにしていく。企業の社会貢献とは、そういうものであるべきだろう。

 変わるのは、まず企業なのである。社会や文化と関わることによって,経済機関である企業が社会性や文化性を高めることに意味がある。それは、社会や文化を経済主義に巻き込むこととは全く逆の方向と言っていい。

 企業の社会貢献活動は、企業と社会との新しいコミュニケーション活動であり、その目的は企業自らが自己変革することにより、長期的に社会を変革していくことでなければならない。性急に社会変革を目指しては、社会貢献どころか、社会に歪みを与えかねない。社会的な地位が高まったからといって、安易に富の再配分の役割を果たすべきでもない。

 もし僅かでもそうしたことに関わるのであれば、企業自らのコミュニケーション体質化と社会とのコミュニケーション姿勢を確立しておくことが先決である。

 

●新しい企業評価軸の提案

 企業が社会活動などで社会との新しい接点を広げようとしている一方で、社会からも新しい提案が企業になされはじめている。新しい企業評価の動きである。

 米国の非営利組織CEP(Council of Economic Priorities)は、毎年、 "Shopping for a Better World" という消費者リポートを発表して話題を呼んでいる。これまでのような財務指標や抽象的なイメージではなく、社会的文化的な視点から具体的な評価項目を明確にし、それに基づいて企業の評価を行ったのである。そして、社会への貢献姿勢の強い企業を支援していこうと消費者に呼びかけた。それは同時に、企業に対するメッセージでもあった。評価基準(下表)については異論もあるだろうが、社会が具体的に企業のあり方を提案し始めたことは評価すべきである。

 同様なものに“バルディーズ原則”がある。1989年エクソン社のタンカー“バルディーズ号”がアラスカ沖で原油流出事故を起こしたのを契機に、米国の環境保護団体が提案した「企業が環境を保全していくために守るべき10原則」である。これも新しい企業評価軸の提案になっている。

 わが国でもこうした動きは強まっている。問題は、こうした社会側からの対話の呼びかけに対して、企業側はあまり熱心に対応していないことである。確かに評価項目や評価方法には問題がある。企業が不正確な評価をされていることも少なくないだろう。だが、そうであればこそ、なおさら企業はそうした提案にコミットしていくべきではないだろうか。企業が本当に自らの社会性を高めていこうと考えているのであれば、こうしたチャンスを逃すべきではない。企業と社会とのコミュニケーションのまたとない機会である。

 新しい企業評価軸の多くは、企業外部から提出されていることも象徴的である。企業人や労働組合からもっと具体的な提案があってもいい。個別企業の立場では難しいし、経済団体も利害がからんでまとめにくいから、自由な企業人グループが、あまり肩に力をいれずに提案しあうような状況が生まれることが望ましいが、残念ながらそれもない。

 企業文化議論の高まりの中で、企業内に企業文化研究会をつくった企業は多い。そこでどのような議論がなされているのかは、あまり外部には出てこないが、そうした問題は個別企業の問題であると同時に、企業全般の問題でもある。個別企業を超えた企業文化研究会が、そろそろできてもいい頃である。

 

●社会との柔らかいコミュニケーション・

 企業経営者の集まりで、"Shopping for a Better World" の話をしたら、「その基準はいかにも市民運動家的発想で、企業の現実には合わない」と指摘された。確かにそうした面がないわけではないが、そう言ってしまったら前には進まない。それに現実に合わないからこそ提案の意味もある。どこが合わないのかを具体的に説明して、より良い評価システムを作り上げることが企業にとっても有益ではないだろうか。

 脱企業社会論や企業批判が再び勢いを強めているが、これもある集まりで、「外部の方は企業の実態を充分ご存知にならずに厳しく批判される」とおっしゃった経営者がいる。かなり昔の実態をベースに批判を展開しているケースもあるし、批判のための批判と思えるものもないわけではない。

 しかし、だからといって「企業外部の者が実態を知らずに企業批判するな」という指摘(その方はもちろんそうは言っていないが)は成り立たない。第一、社会との間に壁をつくってきたのは企業なのである。実状から遊離した批判には実状をしっかりと説明していけばいいし、またそうしなければならない。企業批判に対して、企業はもっと柔らかなコミュニケーション姿勢を持つ必要がある。

 問題は企業の実状が外から見えないことである。もしかすると、外部からだけではなく、企業のなかにいる従業員や経営者にも、企業の実像が見えなくなっているのではないか。見えていると思っている人も、それは昔の企業実像なのではないか。

 企業の社会的地位は大きく変化した。従業員はもちろん、お客様にとっても経営者にとっても、企業の意味は変わってきた。一度、企業とは何かをアンラーニングする必要がある。そして、企業関係者はもちろんのこと、広く社会全体が、企業のあり方を考え直す時期にきている。

 企業と社会、会社と社員は対立関係にあるわけではない。結局、社員が集まって企業ができ、企業が集まって社会ができている。社員や企業が変われば、自ずと社会は変わっていく。社会は変えるものではなく、変わるものなのだ。その面で企業の果たす役割は極めて大きい。

 

1991

潟Rンセプトワークショップ/佐藤修