コモンズの視点から発想の流れを逆転させよう

佐藤修 〔「地域開発」1998年2月号掲載〕

■地殻変動が始まっている

 21世紀を直前にして、大きな地殻変動が少しずつ現実化しつつある。この地殻変動をどう乗り切るかが、これからの私たちの歴史に大きな影響を与えていくことは間違いない。時代に流されるのではなく、また変化に受け身で対処していくのではなく、未来をどうデザインするのかというビジョンと理念をもって、しっかりと現実を生きていくことが必要である。

 地殻変動の予兆のいくつかを見てみよう。まず行政の世界では地方分権が進められ、行政の枠組みが再構築されようとしている。しかし、そこでの多くの議論は、いまだ中央集権に立脚したこれまでの発想の延長にある。「地方」はあくまでも中央に対する地方であり、中央にある権限の一部を委譲したところで、事態はそう変わらないだろう。 

 そうした構造は、自治体と住民との関係にも見られる。住民参加が広がっているが、それも所詮はこれまでの行政中心の発想の延長である。行政イニシアティブで行う活動に住民を「参加させる」にすぎないという意味では、従来型の枠組みを一歩も出ていない。それが悪いわけではないが、それでは次の時代は開けないだろう。だが、こうした動きのなかで、新しい動き、つまり地域主権や住民主役の動きが始まっていることも見落としてはならない。住民参加とはベクトルを反転させた、「行政参加」の動きも出始めている。

 政治においても非連続の変化が感じられる。選挙の投票率低下を政治意識の低下と結びつけて語られることが多いが、一方では住民投票への関心が高まっていることも事実である。投票率の低下は必ずしも政治意識の低下に直結するわけではない。むしろ政治システムの破綻と捉えるべきであり、議会制を中心としたこれまでの政治の仕組みがゆらいでいるのである。事態は、言葉だけの政治改革では乗り切れないところに来ていることに気づかなければならない。

 経済の世界もまさにパラダイム転換を突きつけられている。根本的な問題は環境問題である。これまでの経済は自然から人工物を創出する流れが基本だったが、自然の枯渇や変質という問題が発生し、いまや「持続可能性」ということが話題になりだしている。持続可能性という発想自体が極めて「人為的」な限界を持つものだが、それはともかく、自然に任せておくにはあまりに危険な状況にまで問題は深刻化しつつある。経済の枠組みは骨格から書き直されなければならないところに来ている。

 金融ビッグバンもまた、日本の経済システムの変革を加速するだろう。金融ビッグバンはいまのところ金融業界や金融システムの話として語られているが、むしろ日本の経済システムの基盤となっていた、極めて特異な金融システムの崩壊を通して、すべての企業や行政に大きな影響を与えていく。そこにこそ本当の意味がある。個々の企業にとっても、これまでのような安直な経営では事態は乗り切れないだろうが、産業構造そのものも大きく変わっていくことのほうが重要である。産業の主役はおそらく大企業から中堅・中小企業へと移行し、企業のあり方も人々の働き方も大きく変わっていくことになるだろう。ワーカーズ・コレクティブや市民企業など、すでに新しい形の企業が生まれはじめている。 こうした現在パラダイムの限界を物語る事例は枚挙に暇がない。もっと基本的なところでいえば、教育の問題も限界に来ているし、社会の基本要素だった家族や地域社会も、少子化や非婚化の波を受けて変質しつつある。

 これらはすべてホロニックにかかわり合っており、個々に対処しているだけではなかなか解けない問題である。逆に個々の問題を解こうとするとかえって全体像を壊すことにもなりかねない。しかし、残念ながら現在の取り組みのほとんどすべてが、臨床対応的であり、その結果、事態をますます混迷させていることも少なくない。

 いまこそ、時代の全体像を回復し、発想の枠組みを転換させていくことが必要である。そして、思い切った発想で歴史のグランドデザインを描き、ビジョンや構想を構築していかねばならない。

■コモンズの回復こそ21世紀への切り口

 ではどのような社会を目指すべきか。

 社会は、往々にして「公」と「私」の二つの軸で捉えられがちだが、現実には第1図のような3つないしは4つのセクターから構成されていると捉えるべきだろう。第1のセクターは、「公(パブリック)」のセクターで、いわゆる政府である。そこでの主役は行政である。第2のセクターは「私(プライベート)」のセクター、いわゆる市場で、企業が主役である。近年の日本社会では、公私の二元的議論が多く、社会は行政主導の公の政府と企業主導の市場とで成り立っているように受け取られがちだった。そして、公と私の役割分担論のなかで、両者の拡大のせめぎあいが行われてきたと言っていい。

 しかし、実は「公」にも「私」にも属さない、もうひとつのセクターが社会にはある。「共」のセクターである。入会地や入会山のように、当該地域の住民みんなが共同で使える、みんなのものだが、特定のだれかのものではない、「コモンズ」ともよぶべきセクターである。コモンズでの主役は、いわゆるNPO*1やボランタリー組織である。

  「公共」という言葉のせいもあって、「共」は「公」に内包されるイメージが持たれがちだが、「公」と「共」とは発想が違っている。前者には「私」と同じく「所有」や「排除」といった閉鎖的な姿勢が含まれるが、「共」には「活用」や「共同」というような支援的姿勢がある。しかも日本の場合、「公」は「官」に近く、「みんなのもの」というよりも、その対極にある「御上のもの」というイメージが強い。事実、市町村はもちろんのこと、その先にある自治会や町内会まで(建前は別にして) 、国家の統治体制のヒエラルキーに組み込まれている。「公」と「共」はわけて考える必要がある。

  第3のセクターであるコモンズは、「公」と「私」の権益拡大競争の余波を受けて、どんどん縮小されてきているのが近年の傾向である。かつては住民たちが生活の糧を得たり憩う場であった、入会地や入会海が、「だれか」のものになってしまい、次第に自由に使えなくなってきていることが、そのことを示している。

 浸食されているのは第3のセクターだけではない。その根底にある自然の世界(第4のセクター)も枯渇してしまうほどに浸食されている。その結果、第2図のようにかつては安定していた社会が、非常に不安定になってしまっている。ここに、現在の最大の問題があるように思われる。

 20世紀が「公」と「私」の時代だったとすれば、21世紀は「共」と「自然」の時代である。21世紀に向けてのデザインは、「コモンズ」を軸にして描かれなければならない。言い換えれば、「みんなのもの」という視点から、政治も経済も行政も文化も、そして教育も地域社会も、見直されなければならない。

  コモンズから出発すると、おそらくこれまでのベクトルとは逆転した発想が必要になるだろう*2。大切な情報もコモンズの現場にあることがわかってくるし、最高の知恵もまた、額に汗して生きている現場にこそあることに気がつくだろう。持続可能などというさびしい発想ではなく、自然との関係においても共進化的な新しい地平が開かれてくるかもしれない。地域づくりが、あるいは国土計画が、つまるところ「水と土を育んでいくこと」であるならば、コモンズこそが社会の軸におかれなければならない。

  コモンズの回復。これが私の考える21世紀に向けてのデザインのシナリオである。

*1) NPO  

非営利組織(Non Profit Organization)という名前は、利益を軸にした捉え方であり、積極的な定義とは言いがたい。しかも利益はNPOにも重要な課題である。重要なことは、「利益の出し方」「利益の配分の仕方」「プロセスの透明性」であって、利益そのものではない。そうしたことから考えると、社会にとっての利益を創出する組織という意味から、SPO(Social Profit Organization) と呼んだほうが的確ではないだろうか。

*2) 発想のベクトルの逆転

たとえばコモンズを軸において行政を考えると、市町村でやるよりも都道府県や国でやったほうがいいことを中央に集権していくという中央集権発想が効果的である。それに伴い税金の流れも地方税が基本となり、中央交付税制度が望ましい。また、議会も、住民投票をベースにして組み立てられることになれば、地方議会と国会のヒエラルキーは逆転することになる。もちろん単純な部分統合ではなく、全体の視点がますます重要になるが、今のような現場から遊離しがちな全体の論理とはかなり異なったものになるはずである。  

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